教科、教師、生徒の関係

みなさん、ご無沙汰しております。タイのバンコクから鵜野がお届けします。

先日10月26日タイでは前国王の火葬の儀が執り行われ、日本の皇室からも秋篠宮ご夫妻がいらしていました。この日、タイ全土は休日になりました。学校も10月のこの時期は中間休みで、学校はもともと休みです。私の勤務先をはじめインター校もそれが行われる週は休みになっていたことと思います。またほとんどの銀行やデパート、セブンイレブンまでもが、半日もしくは終日閉店をしていました。タイ国民の関心の高さが表れていました。


今回のお題は「教科(学習項目)、教師、生徒の関係」について書いていきたいと思います。

私を苦しめる教科と教師

小中高を通して、私の学業成績は必ずしも誇れるものではありませんでした。そんな状況の中で、いやそのような状況だからこそ色々なものが見えました。それは「教科(学習項目)、教師、生徒の関係」です。

当時の私にとって、教師は教科と共謀して私を苦しめているという印象でした。まるで教師が川の向こう側にいて、泳げない自分を向こうから呼んでいるだけ。泳ぎ方は自分で勉強しろと言われているようでした。

自分の勉強や努力不足を棚に上げての話ですが、そのように感じていたのは事実です。もう少しサポートしてくれたらなぁ、バカな質問にも嫌な顔をせずに答えてほしいなぁ、分からないということが言える環境にしてほしいなぁ、と子供心に感じていました。

教科に立ち向かう教師と生徒

「それがどうした?」と反感を買うかもしれませんが、私はこれを強く感じます。教師は生徒の側にいるんです。また、いるべきだと思います。みんな同じように頭がいい生徒ばっかりじゃないんです。頭がいい生徒は何もしなくても自分でやっていけますよね。でも、教師は上の例で例えたら向こう岸の教科(学習の達成)に向かうために生徒と一緒に泳いでいってあげないと。

IBを教えるようになって、IBの理念に精通した人と接したり、そのような人を見ていると「教科に立ち向かう教師と生徒」言わば、距離の遠い教科に対して教師と生徒が近い、というのに気づきました。前回ワークショップリーダーの事を書きましたが、そのような先生を見ているとそのモデルのように感じます。本当にいるんですよ、天使みたいな先生が。常に学習者の立場に立って一緒に到達目標に向かっていってくれる存在。自分もこんな先生と勉強できていたら、成績も良くなっていたかもしれない、と教師のせいにしている自分。

自分の教わった先生方だけだったのかもしれませんし、時代錯誤がハンパないのかもしれませんが、出来るだけ生徒の立ち場に立って一緒に歩いていこうと思っています。

ここでクマユウ、横槍を入れる

すみません。最後に失礼します。熊谷優一です。晋さんが書かれたことに思い当たる節があったので、少しだけ付け加えさせていただきます。

「形成的評価」という概念です。私達指導者は、例えば各単元の課題を完遂できるようになるため、少しずつ知識やスキルや対策が見につくように計画し、学習活動を観察し、次の活動が円滑に進むように足場づくりをします。もし、躓いているようだったら、学習内容を少し戻って復習したり、違った角度から問題を捉えたり、らせん状に学習を強化します。モチベーションが落ちている時にはテコ入れをしたりしますよね。

IBではそれを「ユニットプランナー」という日本教育で言う「学習指導案」の中に記述します。最終的な課題をやり遂げられるためにどんな知識や技能が必要なのかを記述します。それが「形成的評価」です。

実はすべての先生が無意識のうちに、感覚的に「形成的評価」を授業中に行っているはずです。できている、わかっている、身についていると確認できる材料が必ずあるはずなんです。しかし、それをあまり記述しません。私の学校の先生たちが「ユニットプランナー」を書いたときに一番苦労したのはそこでした。だから、授業参観をして、「先生、ここ確認してたよね」ってフィードバックをしたこともあります。第三者の視点が必要な時もあります。

授業内で指導者がどのように学習者を見ているのか、そしてその時々の学習たちにどのような支援をしていくのか、それを記述できるスキルがIBの先生には求められます。試験や課題で生徒を縛り、管理するのではなく、個々の生徒に寄り添い、学びをサポートする。私が出会ったIBの先生たちはそんな指導の仕方をされています。