前回のエントリーでは日本文学者ドナルド・キーンについて取り上げました。
というのも、9月23日に新潟県柏崎市で行われた『共に考える“教育の未来”』という柏崎市民による教育イベントに通訳およびワークショップに招待を受けた際に、「ドナルド・キーン・センター柏崎」を案内していただいたからなんですね。
案内をしていただいたのが、吉田眞理さんです。吉田眞理さんは「公益財団法人ブルボン吉田記念財団」の理事として、ドナルド・キーンセンター柏崎を運営されています。
ドナルド・キーンセンター柏崎までの車の中で
みなさん、こんにちは。熊谷優一です。大阪に来る前、柏崎には筑波大学客員教授で、私のエグゼクティブ・プロデューサーであるキャロル・犬飼・ディクソン先生が「フィボナッチの森」で定期的に開いているバーベキュー大会にこれまで何度か行ったことがありました。
芸術家、文学者、お医者さん、英語の先生たち、主婦など多様な人たちが集まるその会で聞く話はとても刺激的でした。肉を焼きながら、ドナルド・キーンセンターのことを聞き、ぜひ足を運びたいと話していたら、吉田さんに案内していただくことになった次第です。
センターに行くまでのわずかな時間に吉田さんと話したことが今も私に中に確かな実感を伴って存在しています。彼女が話す言葉はまるで交響曲を聞いているようで、どれも力強く、そして素敵でした。吉田さんが運転する車の助手席で、私は必死になってメモを取りました。
私だけにとどめておくのはもったいないと思い、今回は私が吉田眞理さんから聞いた言葉をみなさんに紹介したいと思います。
命のアンテナ
『全ての子供に、その子にしか受信できない電波をとらえるアンテナがある。』
吉田眞理さんはそのように話しました。そしてそれを、「命のアンテナ」という言葉で説明されました。その電波は必ずしも鮮明ではないかもしれない。耳を澄まないと聞き取れないくらい弱弱しいかもしれないし、最大ボリュームで騒々しいくらい大きく聞こえてくるかもしれない。でも、『どんな人にでも必ず、受け取れる電波がある。』と彼女は言うのです。
それは個性という言葉で説明がつくかもしれません。自分の個性を見出す過程なのかもしれません。もしかしたら生まれてきた意味なのかも。吉田さんの話を聞きながら私は様々なことを思い描きました。
そして、その電波を受信できた時、個性に気づいたとき、自らの人生意味を見出した時、自分の純粋を探り当てたときの感覚を、私は「チノメザメ」と呼んでいると気が付きました。みんな言葉こそ異なりさえすれ、言いたいことは同じなのかもしれません。
大人がアンテナを折っていないか
しかしながら、子どもたちが感覚を研ぎ澄まして、アンテナを張り、電波を受信するのはそう簡単ではありません。私たちオトナが子どもだったときもそうでしたし、実は今もそうじゃないですか?
『大人が、教育が、子どもたちのそのアンテナを折ってはいけない。』
思わず、ハッとしました。子どもたちが自己肯定感が低いとか、劣等感ゆえに自己否定感が強いのは、我々オトナのせいではなかったか、と。子どもたちの自由自在な発想と創造力を型にはめて、標準化してしまうことによって、子どもたちが生まれ持った『命のアンテナ』を折ることになっていないか、と。
劣等感をバネにして、自らを奮い立たせることができる強さを持つ人ばかりではありません。劣等感ゆえに、誰かを傷つけることがあります。そしてそれは結局のところ、自分を傷つけることに繋がります。
まだうまく言語化できていなんですけど、子どもたちが活き活きと、自分らしく生涯に渡って学ぶことができる社会であってほしいと思うんです。まだ、ちゃんと説明できるまでたどり着いてないですね……。なんだかもやもやします。
最後に
複雑な社会の中でどう生きていくのか。自分には何ができて、何ができないのか。世界とのつながりは自分を知ることから始まります。自分とは異なる誰かとともに生きていくと知ることで、社会とのつながりを求め始めます。
美しく自然豊かな柏崎から、子どもたちは世界をどのように見ていくのか。柏崎で生まれ育ったからこそ見えることがあるでしょう。
実は、最後がうまくまとまらなくて、吉田眞理さんにコメントしていただくことで何となくごまかそうと思っていました。でも、メッセンジャーで、いつの間にか「平和の正体」についてやり取りしだした話がまた面白かったので、これは私が語るよりも、「直接眞理さんに語っていただいたほうがいいに決まってる!」と思い、思い切って眞理さんに書いてくださいとお願いしました。
というわけで、みなさん、次回は吉田眞理さんが本家『命のアンテナ』の話を書いてくれることになりました。しかし、なんていう言葉を語る方なんでしょうか。私は彼女の言葉をもっとたくさんの人に届けたいと思うくらいファンになってしまいました。どうぞお楽しみに!