みなさん、こんにちは。熊谷優一です。
前回の「南三陸の保健室より」は阿部富子先生でした。富子先生は私の若かりし未熟な日々をズバリ間近で見ていて、最もダークな時代を知っています。うーん何というか、私以上に私のことを理解していると言うんでしょうかね。とにかく、私にとって富子先生は私が言いたかったことを私の代わりに言語化してくれるそういった存在です。
彼女から学んだことは一教員としてというフレームを越えて、人間として私を人間たらしめているといっても過言ではない気がします。事実、彼女が話してくれた数々のエピソードは私の中で確実に生き続けています。
自分に厳しく、人にはもっと厳しく
私が宮城県の教員になったのは大学を卒業してすぐ、22歳の時でした。初任校での私は完全に情熱をはき違えており、今思えば赤面することばかり言ったり、やったりしていたと思います。その反省が2校目での私の葛藤の始まりでした。富子先生に出会ったのは私が26歳の頃、そこから6年間ご一緒しました。
当時、私は夜間大学出身ということもあり、学歴コンプレックスを抱いていました。どちらかと言うと、地べたを這って、ドブをさらって生きてきた私は、経験値だけはあったと思います。その経験から出た言葉を生徒たちは自分たちに重ねて聞いてくれていたと思います。
しかし、その先に彼らを伸ばそうと思ったときに、私には理論的バックグランドが圧倒的に不足していました。最初に一歩を踏み出させることに成功はしても、それよりさらに上の段階に私では伸ばすことができない。
気仙沼から東京に出てきてセミナーに参加したり、仙台で勉強会に出たり、(できるだけ安価で)勉強できる機会を探して様々なプログラムに応募したりしてとにかくインプットすること、私にはないことを他の参加者から得ることを心がけていました。
いつも本を片手に行動していた私は、いささかやり過ぎだったと思いますが、そうでもしないとスッカスカの私は不安で不安で仕方がなかった。だから、簡単に不安や不満を語り、結局何の行動も起こそうとしない先生たちを見て、「言うなら、やれ」って正直思っていました。それでなくても目が笑っていないと言われる私です。我ながら、「自分に厳しく、人にはもっと厳しい」って思われていただろうなと思います。
思いはあっても…
余裕がなく、隙がなく、理論武装することで頭がいっぱいだった私は、「一体何から自分を守ろうとしていたんだろう」と今になって思いますが、恐らく私は私自身の劣等感を何とかしたいと思っていたのだと思います。そのために行動しました。正直なことを言うと、私は疲弊していました。それでもやる。だから口ばっかりでやらない若手にはかなり厳しいことを言ったと思います。私の周りには人は集まってこなかったのは当然の結果です。
その後、私は宮城県の教員を辞めます。そして韓国に飛び立ちました。そこで経験したことは今の私の世界観を形成しています。
ある時、私は事故にあい、膝を手術することになりました。大したことはないと思って放置していたのですが、どうやらこの痛みと腫れはシップで済む話ではなさそうだと病院に行ったら、このままだと左足が壊死するかもしれないと緊急手術になったのでした。その当時の私の韓国語は日常会話に毛が生えた程度。そういえば薬局のアジュンマから、「早く病院に行きなさい。×××になったらどうするの!」と言われましたが、全く聞き取れていませんでした。結構物事を簡単に考えるタイプなんだな自分と他人事のように思いつつ、着々と準備が進められ、気が付けば手術室でした。何たる手際!
下半身麻酔をされた私は、まるでスーパーで売っているブルーベリーのパックのようにたわわな血の塊の粒々たちが切開された私の左膝から取り除かれていく様子をボーっと見ていました。手術台の上の照明器具に全部映っていたんですよ。今でもブルーベリーを見るとなんだか親近感がわきます。
それはさておき、術後、翌日からリハビリが始まりました。横たわって、左足を上げるだけなのですが、1ミリも上がらない。汗だくで何十分頑張っても一向に上がらない。リハビリの先生に私は弱音を吐きます。
その時、「あっ!」と気づいたんです。動かそうと思っても動かないことはある、と。
完璧という状態
人にはやろうって思っていても、やれない、行動に移せないときがあります。でも、思いはあるんです。私はかつて、その思いを読み取ることはできませんでした。そして、行動に移せない人に対して、厳しい目を向けていました。先生にも生徒にもそうだったと思います。
もしも、あの時、寄り添ったり、手を差し伸べることができたら、彼らはもしかしたら何らかの行動に移せたかもしれない。そして、いずれ行動の末に学んだことを私と共有してくれたかもしれない。私ができないことを彼らが補い、彼らができないことを私が補う、そんな補完し合う関係性を築けたかもしれない。
完璧という状態は決して自分一人何でもできるようになるということではない。自分ができないことを誰かが助けてくれる、誰かができないことに代わりに自分が手を差し伸べる、そんな関係性のことをいうのだと私は理解しています。
実際、それに気付いたら、とても楽になりました。「自分に優しく、人にはもっと優しく」なりました。私の周りに人は寄ってくるようになりました。私が四苦八苦していると、「やろうか?」と言ってもらえるようになりました。
結果、何だか楽しくなりました。
最後に
もう15年も前になるでしょうか。「南三陸の保健室より」で富子先生が書いてくれた教え子の結婚式での話は私の中で確実に生き続けています。
富子先生はその話を教え子の結婚式で聞いたそうです。その教え子に助言した担任の先生を私は知りません。でも、その先生が話したことがこんな風にまわりまわって、私に気づきを与えてくれています。
対話することはとても大事ですね。話をする中で私たちは自分の考えを整理することができます。私達は言葉にできなかったり、気が付いていないことを対話する相手に教えてもらうことがあります。
みなさんが思っていることは共有するべきです。それがいつか誰かの心に届くかもしれない。見知らぬ人の気持ちを救うかもしれない。そして廻りまわって、みなさんのことを助けてくれるかもしれない。そんな風に私は言葉を使ってきたいなと思います。今日も読んでいただきありがとうございました。
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