鳥のさえずり、風の音、手元の地図。そして私は宙を仰ぐ。信じる心が試されている。
みなさん、こんにちは。熊谷優一です。「犬は吠えるがキャラバンは進む」シリーズでは私と生徒との授業内外で起こったディスカッションについて書いています。
以前に酒井優輔くんが、「犬は吠えるがキャラバンは進む vol.5 疑問を議論に」で久々にみんなで集まって話したことを彼の視点から書いてくれましたね。今日はその議論に至ったエピソードを書きたいと思います。
山里のカフェ
気仙沼に帰省した際に、小学校の頃からの同級生と最近話題のカフェに行こうということになりました。気仙沼はリアス式海岸の港町で、海べりまで山が迫っており、意外と山々しています(笑)。私たちが行こうとしたカフェは港が見える景色がいいカフェではなく、山の中にある雰囲気がいいカフェだということでした。
さて、Google Mapが示すルートに従ってそのカフェを目指すも、山道はやがて峠道に、元々細く曲がりくねった道はますます細くなっていき、そしてついに電波も途絶えてしまいました。国道からすでに15分は経過して、いよいよ私たちはこの先にカフェと名の付く場所なんてないんじゃないかと疑い始めます。
2人ともそのカフェには行ったことがありません。噂を耳にしただけでした。車窓から見える景色は山、山、山、山、そして山。およそカフェがありそうな雰囲気ではありません。もしかしたらこの先どんなに車を走らせても、カフェなんてないんじゃないか。不安は募ります。完全にスマホは圏外になっていました。
信じる心
もう引き返そうか……。最初に口に出したのは友人でした。私は冗談交じりに返します。
「信じる心が試されている」
信じてみよう。だって、山奥にカフェがあるとみんな言っていたじゃないか。みんなって誰だ。そういう問題ではない。実際に行って、うまいコーヒーを飲んだそうだ。オレ達は「注文の多い料理店」みたくなるわけではあるまい。
2人とも次第に無口になるも、「それは本当か?」と確認をすることはためらわれました。私たちは結局のところ信じていたのです。そこに港町気仙沼には似つかわしくない山の中の洒落乙なカフェがあることを。
そして不意に道が開け、そのカフェは私たちの目の前に現れました。信じる心が報われた。私たちのコーヒータイムは安堵に満ちていました。
信じることと信じないこと
国際バカロレア(IB:International Baccalaureate)の「知の理論(TOK:Theory of Knowledge)」という科目では「知識の領域(Area of Knowledge)」と「知るための方法(Ways of Knowing)」を次の各8項目で説明します。
知識の領域 | 知るための方法 |
□数学
□自然科学 □人間科学 □芸術 □歴史 □倫理 □宗教的知識の体系 □土着の知識の体系 |
□言語
□知覚 □感情 □理性 □想像 □信仰 □直観 □記憶 |
ここから無理やり、今回のこの山の中のカフェのエピソードを知るための方法のうち、「信仰」と繋げてみたいと思います。英語では「Faith」と記されているので、特定の宗教を信じるというよりは、信念や確信など一般的に「信じるということ」と捉えてみました。
私たちがかろうじて山中にある洒落乙なカフェの存在を信じる心を保ち続けることができたのはどういうわけでしょうか。もしくは、なぜ信じる心が揺らいだのでしょうか。人から聞いた話。目から入ってくる情報。不安の広がり。コーヒーを飲みに行きたい欲求。
信じるも信じないも私たち次第です。信じるか信じないかは私たち個々人にかかっています。では、信じると信じないを分けるのは何でしょうか。
最後に
みなさんは幽霊の存在を信じますか?それはなぜですか?その理由として挙げたことは他の信じることや信じないことにも同様に当てはまりますか?
「幽霊」を「心」と置き換えた場合はどうでしょう。私たちに「心」は本当にあるのでしょうか。私たちが「心」はあるという場合、どのような条件が必要でしょう。
これが酒井優輔くんが「犬は吠えるがキャラバンは進む vol.5 疑問を議論に」で取り上げた議論のトピックに繋がります。私はこういった些細な話題を広げることでTOKへの橋渡しができればいいなと思っています。
「地図は、事物を単純化してこそ有用なものとなる。この考え方は、知識に対してどの程度あてはまりますか」
2016年TOK所定課題で出題されたトピックのひとつです。このお題でIBの生徒たちは自分の考えを述べます。DP(Diploma Programme)を始める前に、高校一年生までにTOKマインドを養っておくことはDPC(Diploma Programme Coordinator)としていつも頭の中にあります。TOKはDPのコア科目ですからね。
ただ、こういった問いは「めんどくせー」って言われることがほとんどです。乗ってくれるのはIBの先生たちとIBの学びを趣向する生徒達ばかり。誰彼に問いかけると嫌われますから、ご注意ください。