犬は吠えるがキャラバンは進む vol.3-5

みなさん、こんにちは。阿部富子です。「犬は吠えるがキャラバンは進む vol.1 後編」で、臨床美術の観点からこんなことを書きました。(というか、書かされました。)

阿部富子先生が池田学の作品について交わした熊谷優一と生徒たちが議論について述べます。

「例えばリンゴひとつ描くとしても、その過程にはTOKで言うところの『知の領域』と『知るための方法』が応用されています」

確かに、話のついでにこの話をクマユウに話したのは認めます。しかし、「それは面白い」と早速授業でやったというのですから、そのフットワークの軽さに何だか呆れてしまいました。クマユウが、「この話は絶対書いた方がいい」というので、生徒たちの議論も含めて、私なりにこのリンゴのエピソードを考察してみたいと思います。

色のイメージ

まずは、生徒達の議論。一人一人、ほんとによくまぁ深く、広く多面的に掘り下げて考えてくれましたね。ありがとうございます。情報提供者としてはうれしい限りです。しかも英語でやったんでしょう?

まずは「黒」という色の持つイメージについて。浅見君は、黒を「悪の象徴に相応しい色」と言っています。鹿間君は、「画集としてのまとまりを簡単に作れるのが色」だと。塩田君は「悪いイメージ」を象徴し、酒井くんは、「嫌いな物にたいしては暗い色を使う」とまとめていますね。稲富君は、「黒=毒リンゴ」を思い浮かべました。

多くの人は黒に対して何らかのネガティブなイメージを持っているのではないでしょうか。私も類に漏れずに生徒たちと同じようなイメージを、以前は持っていました。ところが、臨床美術の講義で話された中で、気付きがありました。

「黒には、赤みのある黒もあれば、青みをおびた黒もある。黒は全ての色を取り込める色でもあり、黒を突き詰めていくと、透明にもなる」

また、日本画家の千住博氏は、「黒というものには、柔らかさや深さといった味を求める。イメージは闇から生まれる」と言っています。

私の中の黒という色に対するイメージは、他者の見方を知る中で、違った見方をするようになりました。私たちが「黒」に対して抱いているイメージが何によって作られたものか考え、それを他者と共有することによって、今まで自分が持っていた考えとは異なる考え方をできるようになりますよね。「黒」ひとつとっても、見方が変われば捉え方もずいぶん異なります。

Black Apple

さて、「黒いリンゴ」を描いた幼児のエピソードに戻りましょうか。なぜ彼は黒いリンゴを描いたのか。

実際に、彼に聞いてみなければわからない彼の知識の背景を、生徒たちは実に豊かな想像力と彼らの既存の知識を結び付けて描写していますね。正解はいくつもある可能性があります。そのいくつもあるかもしれない答えを導き出すために、自分とは異なる考え方に理解を示し、自分の考えをさらに深め、ブラッシュアップしていく過程を想像するのもまた楽しいものです。鋭い質問を通して、言語化できていなかった考えを見つめたり、互いに学び合う姿が目に浮かぶようでした。

では、種明かしをしましょうか。

東北の田舎のほうでは(クマユウや阿部富の出身地)、皮をむいたリンゴが、時間の経過と共に、酸化してしまったサマを「黒くなる」と表現します。ばあちゃんに、リンゴをむいてもらって、遊びに夢中になり、時間が経ってしまい食べようとしたときに、「ほれ~。うんめぇリンゴ、時間経ったがら、黒くなってしまったべや~」とよく言われたものです。

白い画用紙に黒いリンゴを描いたその幼児にとって、そもそも赤い皮のリンゴか、緑の皮のリンゴか、黄色い皮のリンゴかわからないけれど、皮をむかれたリンゴが、ばあちゃんの言う「黒いリンゴ」だったんですね。それから、たまたま幼稚園のお絵かきの時間に、「リンゴを描きましょう」といわれ、インプットされていた、ばあちゃんの言った「リンゴ=黒い」のまんま疑いもなく、画用紙に描きました。

もしみなさんが、みなさんのお子さんが、幼稚園の先生に、「リンゴが黒なわけないでしょう」と、一方的に言われたらどうですか。私は、その時に、「この絵、面白いね。説明してみて」という風に話を聞ける人になりたいです。

対話を通して、彼が考えていることを言語化するのを助け、彼の中に「チノメザメ」が訪れたら、私はセンセイとしてうれしいし、私が見落としていた「ある視点」に気づかせてくれたり、思い出させてくれることを期待しています。

知識の翼

知識の翼は想像力に羽ばたくのでしょうか。その想像力が今乏しくなってきているのではないかと心配しています。何かあるとすぐ責めたてるのではなく、そうせざるを得ない背景には何があったのだろうかと想像してみるのも、情報の正確性を確かめると同時に大切なことではないでしょうか。

黒いリンゴを描いた子に、なんで黒を選択して描いたのかと。想像して、寄り添い、問いかけてみることで思いもよらないストーリーに出会うことがあります。

目に見えること、見えないこと、耳で聞こえること、聞こえないこと、触れること、触れないこと、心の眼で観ると言いますが、時には直観と向き合って向き合うことの中から私たちはある物事を知ります。

私たちが日々出会う様々な出来事の中から、私たちは自分でも思いもよらない自分を発見したりします。でもそれは、それまで気が付かなかっただけで、もともと自分の中にあったものにただ気づいただけかもしれません。

最後に

このリンゴのお話しは今回で終わりです。養護教諭として実践してきたことを、臨床美術を学んできたことを、このディスカッションを通して再度捉え直すことができました。私が話したことが、こんな風に取り上げてもらって、そして私自身もたくさん気付かせてもらいました。ありがとうございました。

今度はどんなディスカッションが生まれるのか、これからも楽しみにしています。