いよいよ花粉が本気を出してきましたね。私は目からやられるタイプです。確かにこの季節、真っ赤な目をしてますが、「赤鬼」や「地獄からの使者」だの、鹿間謙伍君の「TOKで智に挑む」にあった、私に対する描写はヒドいと思いませんか?笑
今回はTOK(知の理論:Theory of Knowledge)の「知るための方法」について取り上げてみたいと思います。
議論する目的とは
2016年9月、内閣府の青年国際交流で14人の学生とラオスに行きました。このプログラムでは、たくさんのディスカッションの場が設けられています。首都ビエンチャンではラオス国立大学の学生と、世界遺産の町ルアンパバーンではSouphanouvong大学の学生と共に、文化や環境といったテーマで議論しました。もちろん共通言語は英語です。
異なる言語、文化を持つ学生たちが連日議論を交わすのです。なかなかどうして簡単にはいきません。そこでは得意、不得意分野に差こそあれ、何らかの形で役割を分担し、互いに尊重し合いながら、補い合いながら、議論の進行に努めていた日本の学生たちの姿が印象的でした。
改めて、国際交流の場におけるディスカッションの目的は、自らの意見で他者を屈服させるのではなく、互いを知り、知見を広げることにあると教えてもらいました。
旅立ちの日に
議論の後は文化交流です。日本の学生たちは、ソーラン節やAKB48の歌など、日本文化を紹介する出し物を披露しました。他にも何曲か歌を準備していたのですが、どうも納得いかないようで、彼らは移動のバスで頭を悩ませていました。
その時、おもむろに学生の一人が「旅立ちの日に(作詞:小嶋登、作曲:坂本浩美)」を歌い始めました。するとヨーロッパのパブか、中南米の路地裏のカフェかと見紛うばかりに、皆がハモリ出します。それは美しいハーモニーでしたよ。不意に一体感がバスに充満しました。聞けば、中学校の音楽の授業で習ったんだそうです。
後日、送別会でこの歌を歌いました。歌詞を知らないラオスの人々が、涙を流して聞いています。まるでそれはラオスで出会った人々と日本の学生たちが心通わせた喜びを歌っているようで、会場は感動に包まれました。
あなたは耳から?それとも目から?
音楽って、鑑賞するだけでなく、様々な機能を持っていますよね。世代も、性別も、文化的背景も異なる人々とつながるツールとしても音楽は優秀です。他の芸術形態と比べて、音楽はどのような特徴を共有し、共有しないのか、ディスカッションしても面白そうですね。
では、TOKの「知るための方法」と絡めて、「私たちはどのようにして音楽を知るのか?」について考えてみましょう。
みなさんは「赤とんぼ」のメロディを口ずさめますよね。どのようにして歌えるようになりましたか?何度も耳で聞いて、何度も反復練習することによって、歌えるようになりましたか?絶対音感の持ち主で、聞いてすぐに歌えるようになりましたか?譜面を見て、メロディを歌えましたか?
メロディひとつ覚えて歌えるといっても様々な方法があって、自分の覚え方と他の人の覚え方が違う可能性がありますよね。
最後に
何かを知るためにとられる方法は、時に無意識かもしれませんが、人それぞれ多様です。
私たちが「何かを知っている」というとき、それを「どのようにして知るのか」について分析するのもTOKのテーマのひとつです。そして、「知っている何か」は実に様々な方法で知られていることを学びます。
TOKでは、「感情・記憶・想像・知覚・直観・理性・信仰・言語」といった8つの方法で、私たちは何かを知ると説明されています。それぞれ細かく説明すると延々と書き続けてしまうので、今日は紹介にとどめますね。
ただ気がかりなのは、鹿間君が何故私を、「赤鬼」だの、「地獄からの使者」だの言うのか、ということです。私とは相当な認識のズレがあるように思います。そのことについて、彼にちょっとキツメの言い方で聞いてみたら、こんな風に返ってきました。
「多様性の尊重は、TOKの学びの中でも強調されています」