Learn to Live:生きるために学ぼうぜ!

みなさんこんにちは!遠藤真之介と申します。今回から「チノメザメ」の執筆者に加わることになりました。どうぞよろしくお願いします。

熊谷先生(僕自身は「優一さん」とお呼びしているので、これから優一さんと書きます)からオファーを頂戴して執筆者に加わったのはいいのですが、少しの戸惑いがあります。僕は「教育関係者」ではないからです。学校の教員でも塾の講師でもありません。メーカーに勤務するサラリーマンです。

だから多少の「アウェー感」を抱きながら執筆していますが、僕がここで伝えたいことは、実は山ほどあります。それは後々書いていくことにして、まずは優一さんと僕の出会いから始めたいと思います。あれは今から20年以上前のことです。

あの頃キミはネクラだった!?

阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた翌年の、1996年のこと。僕が在籍していた高校に、教育実習生としていらしたのが優一さんでした。物静かな印象だったので、まさかこんなに新しいことを次々とチャレンジするような、「暴れん坊」なセンセイになるとは思ってもいませんでした(優一さん、他意はありません)。

そしてある日、ちょっとしたことから、ほぼ20年ぶりに声をかけていただいただき、数週間後に「真之介君、オレのブログに書かない?」とメッセージをいただいて、2秒後には「やります!」って答えていました。

そして今回、みなさんとお目にかかることになった次第です。

もしも、学び続けていなかったら……

さて、僕がこのブログでお伝えしたいことは、「生きていくために学んで行こうぜ!」ということです。僕には、「生きていくために学ぶ」という切実な理由と動機がありました。

高校生の時に大きく大きく、そして深く悩んでいたことがあります。それは自身の「セクシュアリティ」のことでした。ここでいうセクシュアリティとは、「自身の性のあり方」だとざっくり解釈していただいて結構です。

僕が好きになる人は、みんな男の子だったんですね。つまり同性愛者、と言うことになります。思い悩んでたくさんの本を読みました。たくさんの本から答えを引き出そうとしてきました。そこで知ったのが、社会学で「ジェンダー論」という分野があるということだったのです。

そこで予備校時代(一回浪人しています)、調べに調べて、ジェンダー論を開講している大学を見つけました。そして何とか滑り込んで勉強することができました。文教大学国際学部(神奈川県茅ヶ崎市)というところです。

入学式の2日後、新入生のオリエンテーションが終わった後である研究室を訪ねます。ジェンダー論を研究し、担当されている椎野信雄先生の研究室でした。挨拶もそこそこ、「ゲイかもしれないので、ジェンダー論を勉強しにきました。いずれ先生のゼミに入りますからよろしくお願いします!!」と宣言したのです。それからは4年間、ずっとジェンダー論漬けで勉強しました。そんな大学の学びで得たことは……

・同性愛はおかしな行動ではない
・同性愛か異性愛かは自分で選べるものではない(セクシュアル・オリエンテーションと言います)
・同性愛を問題とする社会の側に、実は問題が含まれている
・同性愛への差別は女性への差別と連続している

ということでした。それまでは悩みに悩んで自己嫌悪だらけだったのですが、学問を通して「自分は決して間違った人間ではない」との確信を得ました。それが僕の、大学4年間の学びでした。文教大学でジェンダー論を学ぶことがなかったら、僕は人生を丸ごと捨てていたかもしれない。もしかしたら生きることすら諦めていたかもしれない。

役立つ知識ってさぁ

「学んだことで生き続けることができた」訳ですが、つまり僕は「生きるために学んだ」とも言えます。僕がこのブログで伝え続けたいこと、「生きるために学ぼうぜ!」とは、そういうことです。

この20年で大学の世界も大きく変化しました。実業的なことに重きを置く学部が増え、既存の学部のカリキュラムもそうしたことにシフトして行きました。つまり「役に立つ学問」が求められるようになったということです。

僕も時折大学生に教える機会があります。そこで数人の学生から「すぐに役立つことを教えてほしい」と言われたことが、何回かあります。でも、ちょっと待ってほしいのです。「役に立つ知識」って、すぐに古くなってしまいませんか?

1年生で身につけた「すぐに役立つ知識」は、卒業する頃には全く役に立たないことさえあります。いまビジネスの世界ではAIやブロックチェーンといったテクノロジ、東京オリンピックに向けたインバウンドの話題が主流になっています。でもそれが4年後に通用するでしょうか?

おそらく口にしたら恥ずかしくなるくらいに陳腐なものになっている可能性があります。なぜならそれが「当たり前」になっているだろうからです。「役に立つ知識」のうち、陳腐化しないのはせいぜい、語学や決算書の読み方くらいではないでしょうか?(決算書の読み方が変わらなくても会計基準が変わってしまうことはあります)

こうして「すぐに役立つ知識」がすぐに劣化してしまう理由の一つは、グローバル化です。グローバル化の本質は「過剰流動」です。つまりヒト・モノ・カネの流れが過剰になってしまい、あらゆるものが絶えず大きく変化します。そんな社会の中で、流動し続ける環境に適応するためには「学び続けることを学ぶ」「学び方を学ぶ」ことを優先するしかないように考えています。

「生き続けるために学ぶ」とは、こういうことでもあると考えます。

最後に

僕の、いま目下の関心事を一言で説明すると、「安心して生きていける居場所を作る」と言うことです。上述したように、グローバル化の中で日本の社会も大きく変化し続けています。この変化は決して好ましいものだけではなく、空洞化して空転していることも目立ちます。ヘイトスピーチや差別の問題、経済的格差の問題もここに含まれます。

こうした中では人々の不安が増大して行きます。もしかしたら「すぐに役立つ知識」が求められるのも、この裏返しなのかもしれません。こうした状況の中で個人がどう尊厳を獲得し、取り戻して生きていけるか、ということです。こうしたテーマでいろんなことを、明日を生きるみなさんと一緒に考えて生きたいと思います。

そしてもう一つ。これまでずっと「学び続ける」ことについて触れました。僕もまだ、「学び続けている」人間の一人です。それは一人で書物を読み続けることもそうです。休日はたいてい書店にいます。また月に一度は、大学時代の研究室のメンバーで集まって「ゼミ」を続けています。そして、今はこのブログで発信する機会を頂戴しています。

だからこそ、僕がこれまで学び経験してきたことをご紹介しながら、みなさんと一緒に学び続けて行くことができたら、それが僕の本望であります。

では、また次回!!