おいしさの限界点

あんなに暑かった今年の夏も懐かしいくらい秋も深まり、日に日に涼しくなってきています。秋といえば食。飲食店はあれやこれやと、旬の食材を使ったメニューを前面に出して、それがあたかもおいしいかのように宣伝していますよね。でも、私はいつも疑問に思うのです。そこまで本当においしいのか、と……。

おいしさの想像値

私が幼稚園生の時によく読んだのは、「かこさとし」の本でした。その中に、『カラスのパンやさん』という本があります。その本に描かれたパンがおいしそうで、勢い余って、気仙沼のとあるパン屋さんに頼み込み、パン作りの工程を一日見せてもらいました。

そのパン屋さんはケーキも作っていて、そのショーケースのケーキたちが何とも美しい。イチゴが載っていたり、メロンが載っていたり、すべてのケーキがきらきら輝いて見えました。さぞかしおいしかろう。私はその見てくれからケーキの味に想像を膨らませます。ショーケースにへばりついた私を気の毒に思って、お店の人が一つケーキをくれました。そして一口頬張るやいなや、期待は一瞬にして失望に変わりました(でも、お店に人には一応おいしいと言いました)。

あんなにおいしそうなのに、この程度の味なのか……。私が予想していた「ケーキ」という食べ物のおいしさが10だったとすると、正直そのケーキはその半分も満たしていませんでした。でも、ケーキは美しい。いつか本当においしいと心底思えるケーキにであるかもと、都度都度期待して食べるのですが、やっぱり私が想像するケーキのおいしさを満たすものには未だに出会っていません。

食べ物のおいしさには見た目とか、匂いとか、高級感とか、様々な要因から想像される「おいしさの値」があると思うんですね。その値が低いにもかかわらず、想像値を超えた場合、その食べ物はおいしいという称号を得るわけです。しかし、想像値が高いのに、その値に到達しなかったものは、「おいしくなくはないけど、そんなにおいしいというわけでもないという領域の食べ物」になってしまいます。

おいしさの到達値

この話を札幌の居酒屋でIB関係者としていたら、みんなに、「何言ってんの?」って呆れられました。最初誰も私が主張する「おいしさの想像値」と実際の「おいしさの到達値」とのギャップを理解してくれる人はいませんでした。

この世の中の食べ物のうちで、そのギャップがないものに私は巡り合ったことがありません。想像値と到達値が同等であったためしがない。想像値が高くてがっかりするか、まったく期待していなかったものが思いがげずおいしかったり(ちなみに、この間台湾に行ったときに、阿部公彦先生から紹介された東門駅の永康街側の出口の茶葉屋さんで飲んだ烏龍茶はビックリするくらいおいしかったです)。

しかし、考えてみてください。例えば、ソフトクリーム。大体いい素材を使っているものでも500円くらいですよね。で、超高級マンゴとかメロンを使ったソフトクリームが5,000円したらどうですか。

それを購入するか、しないかはまず置いておいて、それがその値段分のおいしさをどのように担保するというのでしょう。そもそもソフトクリームはそのような価値が付加されるような食べ物なんでしょうか。そこは、超高級な素材を用いた超高級なソフトクリームの「おいしさの想像値」と実際の「おいしさの到達値」にはやっぱり溝があると思うんです。

ということは!各々の食べ物のおいしさには「限界値」が存在している。私はそう踏んでいます。

おいしさ限界値

そういえば、昔生徒たちとこんな議論を廊下でしたことがあると以下の「普通中の普通の僕の将来」で書いてましたね……。

自身を普通中の普通と語る酒井優輔君が、自身の体験と今後を語ります。

この話も、今振り返ってみれば、牛丼という食べ物の「おいしさの限界値」についてでした。牛丼という普段慣れ親しんだ、比較的安価で腹を満たすことができる食べ物に、超高級な牛肉を使ったらそのおいしさの到達値はその分だけ高くなるでしょうか。

例えば普通の牛丼が500円だったとします。そして、高級な牛肉を使った牛丼が1万円だったとします。その牛丼のおいしさは普通の値段の牛丼の20倍になるでしょうか。値段や使われた牛肉の情報なしに、高級な牛丼そのもののおいしさは普通の牛丼を凌駕することがあるでしょうか。

私はきっとその値段分だけおいしさの倍率が上がるとは思えませんし、すべての情報を知っていたとして、おいしいはおいしいけれど、そこまでではないなと、やっぱり失望してしまうんじゃないかと思うんです。なぜなら、牛丼には「おいしさの限界値」があるからです。文化の中で決定された価値が、食べ物にも存在するのです。牛丼は500円でも十分においしい。500円なりにおいしい。でもそれが1万円もするようなものでなくていい……。

ただ、たとえ1万円の高級牛肉を用いた牛丼がおいしくないというわけではないと思うんです。おいしいにはおいしいんだと思います。残さず食べるでしょう。まずいとは思わない。でもどこか500円で十分おいしいから、別に1万円も出して、食べなくてもいいなって思っちゃうんじゃないでしょうかね。

最後に

結構、この話はその後盛り上がりまして、「おいしさの想像値」は所属するコミュニティーに共有されているのか、「おいしさの想像値」と「おいしさの到達値」はどのような要因によって形成されうるのかとか、『知の理論(Theory of Knowledge)』っぽくなってしまいました。こうなるからIB関係者とお酒をともにするのは面倒くさいんですよ。って、言い出しっぺの私が言うなって話ですが……。

正直、この世の中の食べ物の中で、心底おいしいなって思って食べるものってなくないですか?「どれもそこそこおいしいけど、また食べたいって思うようなものはないんだよなぁ」って言ったら、大阪から来ていた若いMYPの先生が、今度焼肉に連れて行ってくれることになりました。そのお店の焼肉に対する私の「おいしさの到達値」が「おいしさの想像値」を超える自信はあると鼻息を荒くしていました。

その時点で、「かなり想像値が上がっちゃうんだけどなぁ……」と肩をすくめつつ、そんなことを口にしたらもう誰にもご飯に誘われない人間になるのも嫌なので、「楽しみにしています」と親指を立てました(このエントリーを読んでいませんように)。

今日のお別れの曲は、シンガポールのエンターテナー、Dick Leeの半生を描いた映画『Wonder Boy』より「Fried Rice Paradise」です。みなさんの「期待値」と「到達値」にギャップがあった食べものはありませんか?もしよかったら「問い合わせフォーム」からエピソードを寄せていただけれると嬉しいです。

言っておきますが、まずいものもないんですよ。みんなそれなりにおいしいと思って食べています。そこは誤解しないでくださいね。それでは、また3日後にお目にかかります。今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。