みなさん、こんにちは。熊谷優一です。このシリーズでは現宮城県気仙沼市で生まれ育った私のばあさんと私の間で起こった悲喜こもごもを書いています。
「13月」とは、「おめでたいやつ、まぬけ」という意味で、私の失敗を罵るためにばあさんが最も高頻度で用いたフレーズのひとつです。
夏のばあさんは大概半裸で廊下に寝ころび、涼んでいるか、庭で草取りをしながら、この世のものとは思えない詛い言を吐きながら、運悪く婆さんの手にかかかった蛇を振り回して、焼酎漬けにしたりしていました。何か悪さをして、倉庫に閉じ込められた日には、一升瓶に浸かった蛇と目が合って、私は生きた心地がしながったのを覚えています。今も蛇が怖いです(笑)。
さて、今回は数年前にリリースしたこの話を、今この時期に読むとまた違って意味を持ってくるのではないかと思い、今回再編集して発表することにしました。
毒工場とあけびスポット
ばあさんは秋になると、私を連れて、山菜採りに出かけます。気仙沼はリアス式海岸になっていて、山が海までせり出しているので、実は山の幸も豊富です。私が育った鹿折(ししおり)という地域は、山と山に挟まれており、平野部分の一番狭いところで200メートルくらいしかありませんでした。さながら「風の谷のナウシカ」っぽい雰囲気の集落といえば、イメージしやすいでしょうか。
鹿折では、むかご、松茸、山ぶどうなどありとあらゆる山菜が取れたものですが、中でも毎年ハズレなく豊作だったのがアケビです。個人的には、アケビは種ばかり多くて、中途半端な甘さの果肉部分よりも、皮を天ぷらにして食べるのが好きでした。何より、お腹いっぱいになりますしね。
そんなアケビが馬鹿みたいにたくさん生っている、ばあさんの秘密の山道がありました。そしてそこは絶対にひとりで行ってはいけないと鬼の形相で言い聞かされていた場所でもありました。その山道をもう少し上っていくと、第二次世界大戦中に毒を生産していた工場があり、その毒がまだ残っていて、人体に有害だというのです。
ばあさんはそこを「毒工場」と読んでいました。事実、一度、毒工場があった場所に連れて行ってもらったのですが、戦争が終わって何十年もたつのに、そこには草一本も生えておらず、異様な空間だったのを覚えています。
生活者としての戦争の話
私にとって、終戦記念日がある8月よりも、秋口に入ってから戦争について考えることが多かったのは毒工場のイメージととアケビ取りの経験が結びついているからだと思います。アケビがたわわに生っている山道の光景、木に登ったり蔦をゆすったりした肉体的感覚、アケビの果肉の食べづらさや皮の天ぷらのほろ苦くも腹いっぱいになる感覚。それらすべての先にあるのが異様な毒工場の跡地です。
アケビ取りに行くときは、大概ばあさんが経験した生活者としての戦争の話になります。気仙沼の空にはよくB29が爆音とともに現れたそうです。造船所があったからでしょう。
当時少女だったばあさんは、爆撃を避けるために家族と山の中で生活していたそうです。朝早く、まだ暗いうちに火を興し、B29に見つからないように煮炊きをしたという話を覚えています。
防空壕のドン・キホーテ
昭和50年代に子供だった私にとって、ちょうどいい遊び場はかつての防空壕でした。今ではどこにあったのかも定かではないのですが、山の方に行けば結構あちことにたくさんあったと思います。子どもにとっては秘密基地感覚でおもちゃを持ちよったり、ゴミみたいなものを拾ってきてはテーブルっぽいのを作ったり、夕暮れ時に人さらいが来る前の時間(大人からそういう話よく聞かされませんでした?)までは、何となくそこに集まってだらだら過ごしていました。
でも、もう何十年もたっていて、その防空壕がいつ崩れるかもわからないというので、結構怒られるんですよ。ランニングに腹巻を巻いて、股引に適当な草履をはいたしゃがれた爺さんとかに。入れ歯で何言っているかわからないんですけど、ひとまず黙って怒られるんです。
すると、しゃがれた爺さんは防空壕の中の私たちの基地に座り込んで、とつとつと話し始めるんです。「天空の城のラピュタ」でパズーとシータがどっかのおじいさんに出くわしますよね。「その飛行石はわしにはまぶしい」って。あんな感じです。
じいさんは、満州で命からがら引き上げる際に、隊からはぐれてしまって、ソ連の軍隊の砲撃をかろうじてよけながら自力で逃げてきたとか、あそこに見える家がB29の爆撃を受けたとか、そんな話を聞かせてくれました。
最初は、子どもながらに、「じいさん、面倒くせー」なんて思っているのですが、時に冒険活劇にようであり、時に平和のありがたさを説きながら私たち質問に答えてくれたりしてくれました。そのじいさんは、私の中で「ドン・キホーテ」とどことなく重なるんですよね。
最後に
あの防空壕で出会ったドン・キホーテの姿形もはっきりしないんですが、聞いた話はこうして今も生々しく覚えています。あの湿った防空壕で語られた話は本当の話なのか、そうでないのかも、もうわかりません。
でも、明らかなことは、戦争のない社会の実現をじいさんは心の底から望んでいたということです。自分にとって、誰かにとって、大切な人の命を失ったり、奪ったりすることは誰にも幸せをもたらすどころか、幸せな生活を築く道半ばの人々も傷つけます。
今、私たちは平和の社会を生きているでしょうか。人類はいまだかつて平和を実現したことがあるでしょうか。もし、平和な社会が実現していたとして、その先に私たちは何を目指すのでしょう。