13月と畦道の面影

みなさん、こんにちは。熊谷優一です。この「13月」シリーズでは3か月に1回位のペースで私と私のばあさんとの間で起こった悲喜こもごもを書いています。

「13月」とは、「おめでたいやつ、まぬけ」といった意味で東北ではよく使われていた言葉です。私のばあさんが最も高頻度で私の失敗を罵るために用いたフレーズのひとつでもあります。

ばあさんがこの世を去ってどれくらいたったでしょうか。13回忌の法事に帰省する予定だったのですが、蜂窩織炎(ほうかしきえん)という感染症にかかってしまい、参加することができなかったので、お彼岸の時期にせめて墓参りをしないと祟られるとそそくさと気仙沼に行ってきました(その時の顛末は前回、新居明くんが書いています……)。

震災後10年経つとメディアでは話題にしていましたが、私が滞在している3日間、毎日地震がありましたし、津波注意報も出ましたよね。ああ、私たちは連続体に生きているんだなと再確認しました。

さて、今回はばあさんが私という命に眼をつけた決定的な出来事について書こうと思います。

保育所には年少のクラスに入ったので、入所したのは4歳を迎える年だったと思います。家で過ごしていた子供にとって、いきなり世界が広がりますよね。類にもれず、私は怖くて泣きました。そんな時代が私にもあったのです。しかし、一瞬で怖いことを忘れるほど、新しい世界に熱中しました。この話を読んだ方なら、私が簡単にあらゆることに没頭する性質であることは想像がつくと思います。

このシリーズだけは止めないでというリクエストに応えて、熊谷とおばあさんの悲喜こもごもを描いた13月シリーズ最新作です。

入所式を終えた翌日のことだったと思います。家の前の道路で車に轢かれました。そして、こっぴどくばあさんから怒られました。私は車に轢かれたことよりも、ばあさんの剣幕が恐ろしくて泣きました。

そもそも、悪いのは車が来ているにも関わらず、道路に飛び出した私です。一瞬の躊躇がいけませんでした。いけるか、いけないか、迷っているうちに体が出てしまったんです。幸いなことに、腰を抜かしましたが、目立った怪我はありませんでした。

私は自分が悪いことは知っていたので、運転されていた若い男性が車を降りてきて、私に声を掛ける前に、「ごめんなさい」と謝罪しました。しかし、彼はうんと心配して、何度も何度も「大丈夫?痛くない?」と聞いてくれました。運転していた方には本当に申し訳ないことをしました。

車のブレーキ音を聞いて、家から出てきたばあさんはその光景を見るなり、私に向かって、「バガこの!」と言いながら近づいてきます。「やばい、本気で怒られる」と思ったあとのことはよく覚えていません。たかだか4年ですが、それまでの人生で最も怖かったからです。ばあさんと私の関係を決定づける原体験となりました。

ばあさんは、運転手さんに頭を下げて謝っていました。普段の私を知っているから、彼女の目にも、私が悪いというのは一目瞭然だったのでしょう。とにかく、こっぴどく怒られ、しばらく外出禁止命令が出ました。大事にいたらなかったからよかったものの、運転手さんには本当に申し訳ないことをしてしました。今更ながら、すみませんでした。

かといって、このことから子どもが学習しきるわけがない。しかも、私は生まれつき落ち着きがない。また、変に独立心があって、保育所まで送り迎えされるのが嫌い。毎朝、ばあさんが支度をしている隙にこそっと家を出て、ひとりで保育所に通いました。私が唯一ばあさんの鼻をあかす機会はこれくらいしかなかったんです。

しかし、私もそこは二度と同じことにならないように、頭を使います。車が走る道路を歩くから、注意欠陥の私は車にぶつかるのであって、車が走っていない道を行けばよいということで、田んぼの畦道が保育所までの通学路になりました。ばあさんはその当時から体が大きかったので、畦道は不安定な上に、幅が狭いので、決して追って来られないのです。でも、どっかで黄色いスモッグを着た畦道を我が物顔で行く私は目視されていたと思います。

しかし、私が畦道を行くのをやめるときは早々に来ました。夏です。うじょうじょいるんです。田んぼには。蛇が。腹が気持ち悪いまだらな色したのや、2つに割れた舌をペロペロしながら茶色や黒にテラついた顔で瞬きもせず真顔でウニョウニョ私に向かってくる奴らが。

私はばあさんよりも怖いものがこの世に存在したのかと、足がすくみ、一歩も進めなくなりました。私の泣き声が聞こえたのか、さすがにその時はばあさんが助けに来てくれました。ばあさんの足は泥だらけでした。

それ以降、私は夏の間はばあさんに手を引かれ、保育所通うようになりました。当時は車を持っている家庭はそれほど多くありませんでしから、途中途中で合流していく友達とその家族と一緒に保育所に通う道のりも楽しいことを知りました。

だから、秋以降はそういう気分になったときだけ、畦道を行くことにしました。稲刈りを迎える頃の田んぼは黄色くなり、稲刈りが終われば土肌に、冬の田んぼは雪が積もって一面白くなり、霜柱を踏むとザクザクと音がしました。やがて春になると畦が塗られ、水がはられ、やがて苗が植えられて田んぼはどんどん青く高くなっていきます。

私は季節を田んぼの畦道から体験しました。田んぼに生息する動植物、飛来する渡り鳥。食べられるもの、食べられないもの。面白いもの、興味がわかないもの。きれいなもの、きれいじゃないもの。田んぼは私の家と保育所をつなぐとともに、季節とともに世界は変化することを体感覚で学べる場でした。

久しぶりに気仙沼を訪れると、私が生まれ育った鹿折という地域から田んぼがなくなっていました。嵩上げされ、街が新たに区画され、田んぼや畑があった場所には新しい家や店が建てられていて、馴染みない街になっていました。山も海もそのままだったのが一層引き立って感じられましたが、しかし、私の時間の流れでは知覚できない変化をしているんだろうとも思いました。

ばあさんは私が蛇を嫌いなことを知って、何か悪さをするとすぐ一升瓶に焼酎漬けにした蛇がいる納屋に連れて行こうとしました。蛇は私に悪さを思いとどまらせるための呪いの札としても用いられました。今でも時々、蛇で満杯のプールに落とされる夢を見ます。蛇には申し訳ありませんが、とにかく嫌いです。

最近、「江戸問答」という本を読んでいます。私が今こんな風に世界を見ているのはどんな面影からなんだろうと考えていたら、こんな内容になっていました。肯定するのはなんだか悔しいのですが、私にとってはばあさんとの暮らしが原点なんだと思います。