お久しぶりです、皆さん。熊谷先生の教え子の一人の塩田匠です。現在、私はスウェーデンでの半年間の留学を終えて、2019年2月7日からエストニアに留学しています。
スウェーデン留学の振り返りは後ほど書くとして、今回は、私が2018年11月に一週間の授業休みを利用して訪れた、人類が抱える史上最大クラスの負の遺産について語っていこうと思います。そこにはどのような事実が刻み込まれ、何をこの死屍累々の上に成り立つ現代社会に生きる我々に語りかけているのか、といった点に着目していこうと思います。
内容は少々ショッキングなものになり、同時に写真も投稿しようと思うので、閲覧される際はお気を付けください。では、しばし私と約75年前の世界を見て回りましょう。
アウシュヴィッツ強制収容所
「遺す」とはどういうことなんでしょう?
何か使える物を、持っていて欲しい物を、大切な何かを、重要なメッセージを、教訓を、他様々なものを、次世代を担う者達へ受け継ぎ、己の世代よりも更に良き時代を築いてもらうためのもの、それを「遺す」というのだと私は思います。重要なのは、「更に良き次世代を」という点です。それを願うこの想いこそが、歴史の隠蔽という大罪に打ち勝ち、アウシュヴィッツ強制収容所の存続を実現させました。
ご存知の通り、アウシュヴィッツは第二次世界大戦時、ドイツのナチス政権によって、占領地であるポーランドに作られた強制収容所です。ここは元々ポーランド軍が使用していた施設が集まるエリアなのですが、それをドイツ軍が押収し、強制収容所として再利用し始めました。
当初はヨーロッパ中から戦犯を集め、収容していたアウシュヴィッツでしたが、アドルフ・ヒトラー率いるドイツの、ユダヤ人抹殺計画(民族浄化)を実行するための拠点としても使われていました。おそらくユダヤ人抹殺の事実の方が有名ですよね。
獄門
さて、ここがアウシュヴィッツ第一強制収容所への入り口です (Auschwitz Museum自体への入り口はもう少し前にありました)。
ここで注目してほしいのが、ゲートに掲げられている文字です。「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる) 」と書かれているのですが (皮肉にも、実際に出られたのは収容人数全体の10分の1以下の人のみです) 、ここにあるBの文字、よく見ると上下逆さに取り付けられています。
実は、アウシュヴィッツはポーランド軍からの押収後に増築されているのですが、それはここに連れてこられた囚人達に命じられました。この門はその際に作られ、Bの文字が逆なのは囚人達のせめてもの抵抗だと言われています。
今回私は現地のガイドツアーへ参加したのですが、もしあそこで説明がなければ見逃していたかもしれません。それほどバレないように抵抗を示さなければならないような、そんな抑圧された環境だったということでしょうか…?
恐怖の一端
この敷地は有刺鉄線付き電熱線で囲まれており、ゲートの近くには見張り台もいくつか設置されています。手前には「止まれ」と書かれた看板も立っており、警告を無視した脱走者は、その見張り台から狙撃されたといいます。現地には当時の銃声を再現している一角があり、投獄者達が感じた恐怖の一端を垣間見ました。
中へ入るとこのように建物が並んでいるわけなんですが、これのいくつかが展示用に内装を改装してあり、多くの貴重な「記憶」を展示しています。
カメラを睨みつけながら、何も知らされることなく「死か労働か」という運命の選別を待つ列に並ばせられる人々の写真(この先で、ガス室に行くか働かされるかが決められました。主に子供と女性がガス室へ、男性は労働へ行かされました。こちらを見る彼らの眼差しが冷たく、そして痛いです)。
人々が生前身に着け、使っていた品の数々(靴、眼鏡、義足義手、カバン等。これは靴の山)、
壁に飾られた、彼らがあそこへ送られた日付、そして亡くなった日付を含むほんの数千人分遺影、
あのガス室にて用いられた殺虫剤とその空き缶、
死体から剥ぎ取られ商用として用いられた2トン分の髪の毛の山 (これはほんの一部)…これらだけでも彼らの痛みを、辛さを、恐怖を、無念を… 感じるには十分すぎます。
ここでどうしても知っていて欲しいのが、細かな傷や臭い、音、雰囲気など、写真では絶対に伝わらない情報の方が多いということです。例えば、教科書に軽く掲載されていて見たことのある靴の写真でさえ、本物はとてつもない衝撃です。でも髪の毛を見た時には流石にゾッとしました、これが人のやることなのか、と。そこの展示室は写真撮影が禁じられており (本当はあともう1か所あるらしいです)、他の展示室のそれとは全く違う重みと迫力がありました。
死の観察者
この後、我々はあのガス室 (一度取り壊されかけたものの、再建したそうです)に入りました。ガイドの方が、入る前に一言だけ、「絶対に中で喋らないでくれ」と言いました。他の参加者の顔つきも一気に変わり、我々は尋常でない緊張感の中に立たされました。
重厚な木製の扉は、一度そこへ入ったら出られないということを容易に暗示しています。正面には地下へと続く階段があり、扉からの光が、薄暗い部屋の中にその姿をぼんやりと浮かび上がらせます。そこを下っていくと、テニスコートより少し広いくらいの大きさの空間に出ました。そここそが正に、数々の死を手助け、見届けてきた場所でした。
壁には無数の痕が生々しく残っていました。ガイドの方が黙って天井を指差しました。小さい小窓程度の大きさの穴が開いていました。そこから殺虫剤が散布されたそうです。そこで亡くなっていった人々の声が、裸で殺虫剤まみれにされ、20分間もがき苦しみながら亡くなっていった彼らの声が、聞こえる気がして私は言葉を失いました。
写真撮影は許可されていましたが、ついに私には撮れませんでした。というか、撮る勇気がありませんでした。今こうしてこのブログを書くために思い出すだけで、息が苦しくなります。
ここまでが、アウシュヴィッツ第一強制収容所で見てきた、感じてきた全てです。正直、第一収容所の締めくくりがガス室だったので、ここまででもう十分だと感じるほどでした。第二強制収容所でのお話はまた次回お話ししますが、あちらにも1つ、驚きを隠せないものがありました。人は、本当に残酷です。
The ones who learn a lesson, and the others who ignore the past which is not even past conveying us the trail of paths of successes and failures. Better be a learner.