街角は様々な問いで溢れています。本屋に並ぶ書籍、アーケードで聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知の目覚め」の合図です。
昨年の10月に思い立ったように熊谷が「ToKtober Fest 2020」と題して、それまで当ブログ(チノメザメ)で取り上げてきた知の理論(国際バカロレア・ディプロマプログラムの世界必修科目)の視点をもう一度振り返るという企画をはじめました。
「振り返っているうちに、どんどん新しい問いにまみれて、終わりどころを見失った(本人談)」そうなので、今年はこちら側で企画管理をすることにしました。「ToKtober Fest」は「Oktober Fest」に由来しているので10月いっぱい、全6回にわたってお送りします。
今回は、昨年一番反響が大きかった、「問いといちゃもん」と題した回を取り上げます。
問いといちゃもん
この間、同僚から、「熊谷先生ってはじめは、いちゃもんをつけたがる人なんだと思っていました」って不意に言われたんですね。その後、フォローされたと思うんですが、私に心にはもう何も届きませんでした。
確かにこのブログを読み返してみても、私は問いのつもりで書いたことが、見方によってはただのいちゃもんって捉えられるなと思いました。友人と商店街を歩いていて、「焼き立てがおいしい」と宣伝するパン屋さんの張り紙を見て、「当たり前のことを言い過ぎている。焼き立てすら美味しくないパン屋なんてあるのか」なんて見たままの感想を言ったつもりでも、その友人からしたら、「また面倒くさいのが始まったよ」くらいに思われてたんだろうなと思ったら、ちょっと怖くなったんですね。
小学校のときも、中学校のときも、高校の時も、私がどこにも、誰にもはまらなかったのは、みんなから私がいつもいちゃもんをつける人と見られていたかもしれない(きっとそれ以外の要素もあるに違いありませんが……)。私が人から嫌われる理由のひとつがそこにあるように思えて来てですね、あれこれ考えあぐねて長い夜を過ごしました(笑)。
次の日、とあるIB生と話しているときにこの話題を出したら、「私も最初そう思っていました!」って共感を得たみたいなはしゃぎようでした。「そんなことありませんよ」って言ってほしかったのに、とんだやぶ蛇でした……。
深層心理を読み解く
その生徒は、その後でこんなふうにフォローしてくれました。
「今は、面白いって思えます。疑問にも思わなかったというか、そういうもんだって受け入れるだけだったのが、一回考えてから受け入れたり、受け入れなかったりするようになりました。そもそも、先生はいちゃもんつけてるって他の人から思われても、問うことをやめない人だし、誰からも好かれなくてもあんまり気にしない人じゃないですか?」
そう言われて気が付きました。私が「いちゃもんをつけている人」であることを同僚の先生に指摘されたときに芽生えた感情の大元は、人から嫌われたくないって思いなんだ、と。そうか、と。なんだかんだいって、私がいつもくよくよするのは、人からどう見られているのかを実はものすごく気にしているんだということなのかと。
でも、一方ではその生徒が言ってくれたように、私は自分の興味関心を押さえられなくなったときは、心底そのことについて知りたくなってしまうときは、人からどう思われるかなんて全く気にならないことも知っています。みなさんも、そんなゾーンに入ることはありませんか?
自分という人間の認知のしかた
自分でも面倒くさい人間だなぁと思うことはあるのですが、国際バカロレアという学びかたと教えかた、そして「知の理論」という科目を知って、私は小学生の頃から感じていた学習に対する「いずい感じ(東北の方言で違和感みたいな意味です)」が解消されました。
『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。』
古典の時間に鴨長明の方丈記の出だしを読んで、世界は物質でできていて、それは運動する(変化する)ってことを言ってるんだとしたら古典を読むって意味違うくなるなと思ったときの興奮。私たち人間の命は一個一個の細胞たちから構成されているってことと、英文が音と音の組み合わせで単語になって、もろもろ結びついて意味をなす文ができるってとこ似てるなって思いつつ、でも機能するとしても美しいとは限らなんだよなぁ、と教室の窓越しに空を見ながら感じた刹那。
何も学習だけでなく、日常生活でもふと「へぇ」って驚くことがあります。でも、「へぇ」ポイントは人それぞれ違いますよね。そして、「へぇ」ポイントを一生分ためていったら、自分自身がどういう人間なのかを探ることができるのではないでしょうか。
最後に
熊谷がこの回がリリースされた後、例の同僚の先生から「言語について考察しましょう」と本をプレゼントされたそうです。また、生徒は「問う力が養われないと探求を深めることはできないですよね、ところでこれどう思います?」と議論をふっかけてきたり、みんなの問いに付き合うのは楽しいと言っていました。
いちゃもんをつけているのではなく、それぞれの問いであり、疑問であり、興味関心に付き合う相手として認められて嬉しいんですって。
さて、今回ここまで。次回もお楽しみに!