街角は様々な問いで溢れています。本屋に並ぶ書籍、アーケードで聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知の目覚め」の合図です。
熊谷はよくTOKの授業やプレDPセッションでボブ・デュランやSEKAI NO OWARIなど歌を導入に用います。ToKtober Fest 2021全6回中の第5回の今回は、テレビから流れてきた、中島みゆきの『観音橋』という歌を聞いた熊谷のお話です。
橋を渡らぬ人々の歌
不意にテレビから、「観音橋を渡らず右へ……」という歌が聞こえてきました。気になって、色々調べてみたのですが、この歌は聞けども聞けども、橋を渡らず、橋のこちら側に棲まう人のことを歌うばかりで、絶対に橋の向こう側には渡らない人のことが歌われています。
今日日、橋を渡れ、挑戦すべしって応援歌はたくさんあります。でも、渡らない人のことを歌った歌はあんまりありません。というか、聞いたことがありません。この歌は、そこに橋は見えるけれど、私は渡らないで右へ行きますよって歌っているんです。
私だったら、きっとその橋を渡ってみると思うんです。渡ってみて、渡りっぱなしだたり、戻ってきたりすると思うんです。でも、私はなぜ橋を渡り、歌の主人公は橋を渡らないのでしょうか。
気後れする人々
結局、私は自由なんだと思います。生まれ落ちた時代も、環境も、そして性格的にも、橋を渡るも、渡らないも、選択する必要もないくらい、自由なんだと思います。しかし、選択を迫られる人はこの世の中のどこかにいて、何らかの要因で、橋を渡らなかったり、橋を渡れなかったりする人がいるんじゃないか……。
目の前に橋がありながら、その橋を渡らない人々はどんな気持ちでその橋を見ているだろう。橋を渡らない決断を下すことは簡単だっただろうか……。そしてその決断のあとは諦念の境地に達したのだろうか……。
不意に、「13月」シリーズで登場する私の祖母を思い出しました。ばあさんは小学校も行けなかったので、字を描くことができませんでした。学がないことを恥じ、決して公の場には出ない人でした。今ではできなくなりましたが、銀行も私が代わりに行って年金を下ろしてきました。私が車を運転するようになって、一緒に行こうと言っても、絶対に首を立てには振りませんでした。
私はただただそのことが悲しかったのを憶えています。普段は強気でまるでこの世に敵なしという立ち居振る舞いをするスーパー個性の祖母が、恥を忍んで、気後れしている姿を見るのはさすがの私も胸が痛みました。
教育者としての軸足
もしかしたら、「橋を渡らない人たち」は祖母のような人たちなのかもしれません。あるいは生まれながらに謂われのない差別を受けざるを得なかった人々や、何らかの理不尽な理由で迫害された人々かもしれません。
私はたまたま自由だから、実行に移さないこと選択したり、せざるをえなかったり、移せなかったりする人が居続けることを、自分の価値観に基づいて勝手に、都合よく、憂いでいるだけなのかも知れません。でも、あの時のばあさんの表情が浮かんでくるんです。私はやっぱりばあさんのあの顔を見て、悲しかったんですよね。
「何人たりとも橋を渡れ!」と無理強いをさせたいわけではありません。でも、子どもであれ、大人であれ、「やってみようかな」って思っている人が、何らかの理由で気後れしてやらない選択をしたり、やれないって思う生徒がいたら、私は教育者として、橋を渡ろうかなって思っているんだったら、一緒に橋を渡ってみないかってと語りかける人でありたいと思いました。
最後に
「観音橋」という歌は中島みゆきが歌っています。以下のトレーラーの1:10くらいから1番だけですが聞くことができます。
私はこの歌のおかげで、自分自身との対話を通して、自分自身を振り返ることができました。自分自身の軸足がブレていると感じる時、自分自身がどこか迷子になっていると感じられる時、タイミングよくこの歌と出会って仕合わせに思います。
みなさんにもそんな学びが訪れたときには、どうぞおすそ分けして下さいね。お待ちしています。