犬は吠えるがキャラバンは進む vol.8-2 ミライからマナブ

皆様、しばらくでした。稲富爽太です。2019年6月1日。久しぶりのキャラバンが開催されました。いつものように何気ない会話から問いが発生し、その問いに対しての答えを話し合い、導き出します。

久しぶりのことすぎて、解散した直後から頭がボーっとしてしまいました。さて、今回は参加したそれぞれの視点から、この議論を振り返ろうと思います。今回の問いは「未来から学ぶことはどの程度可能か」というものでした。これに関する私の考えをまずは述べたいと思います。

稲富爽太の場合

議論が始まったときに私が思ったことは「このテーマは答えが出ないかもしれない」ということでした。私の今までの経験では、過去、もしくは、現在からしか物事を学んだことがなかったと考えているからです。

議論の中でもやはりなかなか答えは出ることはなかったのですが、何かを造るということは、未来に起こる出来事であるため、完成に向かって逆算しながら造っていくということが未来から学ぶということであるのではないかという仮説が立てられました。

しかし私は、何かを作るためには今までの経験や学びが絶対的に必要であると思い、この仮説は、未来だけからの学びではなく、過去⇒現在⇒未来のすべての時間軸から学んでいるのではないかと考えました。

この日私は、未来だけから学ぶことはできないと結論づけました。今まで過去と現在からしか学ぶことはできないと考えていましたが、未来から学ぶこともできることに気づきました。

鹿間謙伍の場合1

ミライからマナブということの具体例として、科学技術の話題を掘り下げてみたいと思います。

ブレインインターフェースという技術はご存知でしょうか?人間の脳波や脳の活動状態を取得して、それを別の何かとの連携に使う技術です。脳でコンピュータを操作するなんてことができるようになります。

この技術、あるところまで行くと、驚異的なブレイクスルーを起こします。脳波でコミュニケーションを取れるようになってしまいます。

脳波で他の人とコミュニケーションが取れるという状況をみなさん想像できますか?テレパシーという超能力がありますが、あれはいちよう言語が仲介していますよね、このブレイクスルーは、言語さえも仲介しないテレパシーだと言える気がします。脳波コミュニケーションのような私たちの経験からは語ることのできない未知で未来の問題・技術から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか?

私は、脳波コミュニケーションで人間がなにを失うのかを考えてみました。言語によるコミュニケーションがなくなるんじゃないか……と私は考えました。そもそも、言語を利用することで、伝えたいことが伝わる理由ってなんでしょう。簡単な想定事例を考えてみます。

鹿間謙伍の場合2

話し相手がペンを持っていたとします。相手が、これはペンですと言えば、我々はそれをペンだと認識します。はたまた、相手がこれは消しゴムだと言えば、それはペンじゃないか!と言います。この事例から,私たちは言語と表現したい物体や感情などを、対応づけするからこそ、言語で表現することが可能になり、その対応づけに共通認識があるからこそ伝わると考えることが出来ます。

もう1つ重要なことは、共通認識がなかった場合にどんな現象が起こるかです。日本語で、これは鉛筆ですと言っても、日本語を知らない外国人には、伝わりません。その時、私たちはジェスチャーを使ったり、指を差しながら鉛筆!鉛筆!と連呼します。この時、外国人は如何にしてそれを鉛筆だと認識するのでしょうか。まずは、その音声と指で指してるモノを対応づけします。あるいは、周りの状況や相手の感情・行動を見て、なにを伝えたいのかを認識したうえで、対応づけを考えます。

そして、外国人の方も見よう見まねで鉛筆と連呼します。日本人である相手の安堵した顔を見て、それが鉛筆であることが確認され、対応づけが一時的に完了します。重要なのは、次です。次は外国人側が、自分の持ち物から鉛筆だと思うモノを取り出し、鉛筆と発音します。そうすると、日本人側は、それが鉛筆であるか、ないかを伝えます。そう対応づけを更新または同期する作業を行うのです。これは鉛筆を当てる精度を高めることと、自分が本当に鉛筆を認識しているかを検討することを目的にしています。

長くなってしまいましたが言語が伝わる、もっと大きく言えば、伝わるという現象は、対応づけの学習、対応づけに関する共通認識、対応づけの同期と更新があるから生まれるのです。脳波コミュニケーションの脳波だろうが、脳の活動状態だろうが、対応づけの学習、対応づけに関する共通認識、対応づけの同期と更新を行えば、伝わる可能性があります。

そろそろ、まとめに入りましょう。私たちは未知の未来の技術から、言語という既成概念を疑い、一般的な伝わるという現象を起こすのに必要な要素を見つけました.さらに未来の技術の実現可能性を考察することもできました。つまり,「ミライからマナブ」ということは下の図で表すことができるのではないでしょうか。

浅見昌弘の場合

「想像は未来だ」

今年春に公開された「映画ドラえもん のび太の月面探査記」で放ったドラえもんの言葉です。僕らはいつも何かを想像しています。今日の昼ごはんから、将来の夢まで幅の違いはあれど、未来のことについて考えています。

想像するためにはある程度情報が必要です。その情報のほとんどは過去から学んだこと、経験です。しかしそうした情報を組み合わせて作られた「想像」はミライのものです。例えばこのブログを書くとき、まず伝えたいことが分かりやすく書かれている文章を想像します。それを実現するために、どのようにすれば分かりやすく伝えられるか、言い回し・単語は何を選択すべきか、例はなにを使おうか、などを考えます。

つまり、想像物から実現するにはどうすればいいか考えなさい。」と問いを与えられているのです。そして私たちはその問いの答えを見つけようとする。この一連のプロセスが「ミライからマナブ」ということなのだと思います。

熊谷先生のブログももちろんですが、私のブログも併せてご覧ください。私のブログは「過去から未来を想像する」ブログです。ぜひご覧ください。