今からおじさんになる君へ:やっぱり、心と体は人間の全てだ

皆さん、こんにちは。熊谷優一です。今振り返れば、すでに2018年には気づいていたのです。私は自分の心と体の微妙なブレに。

深夜は日中には顕にならない知識と問いと自由に溢れています。今回は「Creepy Nutsのオールナイト0」を取り上げます。

教員として国際バカロレアに関わって以来、国内外の様々なプロジェクトに招待され、参加できたことは私のキャリアの幅を大きく広げました。私の40代はチャンスも多く、充実していた一方で、時差ぼけやら聴覚過敏で不眠に悩まされるなど、身体的には常に不調を抱えていました。50歳の足音が大きくなるにつれ、この体があるから生きているという現実にきちんと向き合おうと思ったのです。

憂さ晴らしは筋トレで

50歳になった今、私は筋トレにどっぷりはまっています。毎度トレーニングをするたびに、心と体がピッタリ重なり、私は私自身が何者であったかを取り戻し、何事からも解放されるような感覚で何よりのストレス発散になっています。

心の動きが身体に影響を与えることを明らかにした点でフロイトの業績は称えらましたが、一方で身体の状態が心の動きに大きな影響を与えることを私は身をもって体験しています。どんなに心が辛くても、身体の辛さには敵わないとでもいいましょうか。どんな嫌なことがあっても、きついトレーニングの最中はそっちのキツさのほうが優って嫌なことを忘れる瞬間があるんですよね(そしてその瞬間がどんどん長くなっています)。

こうして筋トレが私の日常になっていきました。そんな折、私のトレーナーから、「センスがあるから選手としてフィージークの大会に出てみないか」と唆されます。

人に流されてみること

私はこれまで何事も自分自身で選択・決断することを重んじてきました。が、それはそれで、自分の枠から出られないというか、なんとなく違和感もありました。

そういえば、自分が思いもしないことを提案された時に、それに乗っかるなんてことはしたことがない。でも、人に流されるがこその意外性もあるだろう。自分で決めないからこそ、思いもよらないヒトやコトに遭遇し、思いもよらないところに連れて行ってもらえるかもという何とも言えないワクワク感もあるな、と。ちょうどその頃、クランボルツの計画的偶発性理論について読んでいたこともあり、今回は「やります!」と即答しました。

今年私は50歳になりました。身体を鍛えたことはありませんが、勝ち負けが出る大会にエントリーすることで、本気度も異なるはず。勝っても負けてもトレーニングした成果は大会にエントリーした場合と絶対に違うに決まっている。身体と心にどんな変化が訪れるのか、少々怖気付きながらも、私は大会までの時間を楽しむことにしました。

絶賛減量中

とはいえ、楽しいことばかりではないんです。

昨年末から筋肉を大きくするために増量を試みたのですが、目的を持って体を大きくしようと一日4食食べても4キロしか増えませんでした。好きなものを好きなだけ自堕落に食べるのとは訳が違って、分かってはいるものの食べるのがきつくて、なかなか体は大きくなりませんでした。それでも、3月になるとせっかく一昨年誂えたスーツはパツパツではちきれんばかりになりました。

4月なって減量が始まると、それはそれで期待している速度で体重が落ちず、不安が募ります。現在私は今年7月に行われるフィジークの大会に出るべく、絶賛減量中。これほどまでにも食事に気を遣っているというのに、なかなか減らない。あと2ヶ月弱で5〜6キロ落とさないといけないんです。お腹の贅肉もなかなか落ちません。人間やっぱりコツコツ積みかさねる忍耐力が必要だとはわかっているのですが……。

個性と身体

この一連の過程の中で、個性、個性と言われる現在、個性ってこういうことを言うんだろうなって実感することがありました。この間マッサージに行った時のことです。

「腰骨と肋骨の間が狭いですね」って言われたんです。普通の人は肋骨と腰骨の間に片手の手のひらが入るくらいのスペースがあるんですって。私は半分くらいしか入らないんだそうです。皆さん、気にしたことあります?

個性、個性と言われるようになってから、個性を他者との異なりとみた場合、私は大概のことは人と大体同じだから、特段個性なんて自分にはないと思って滅入ることもありましたが、もしかすると個性って私たちの身体的特徴に基づいて行動様式に起因するのかもしれないとそのとき思ったんですね。

最後に

小説家の村田沙耶香が前に、「自分以外の体を通して、私たちは世界を認識することができない」という趣旨のことを話していましたが、確かにその通りで、私たちは私たちの身体の特徴や状態によって、世界の感じ方は違うはずです。背の高さ、視力、脚力なんかもそうですし、自分の身体に意識を向けてみると自分の個性が世界の感じ方に影響をもたらしているように思えたのです。これは筋トレをしてみて、没個性だと思っていた自分の個性についての考察に関する新たな発見でした。

最後に、おことわりしておきますね。このエントリーのサムネイル画像はリアルな私の姿ではありません。私の写真をもとに、AIが作成したものです。が、良し悪しは別として、この写真のかなり美化されたマッチョの私の姿に現在寄せようと努力はしています。果たしてどこまで行けるでしょうかねぇ。