この「Heroes」というシリーズでは様々なフィールドで活躍する熊谷が出会った面白いオトナを紹介しています。これまで、ベトナムでレストランを経営する白井尋さん、京象嵌の若手職人の中嶋龍司、漢字文学者の故・白川静さん、日本文学者のドナルド・キーンさん、筑波大学大学院教育研究科客員教授のキャロル・犬飼・ディクソン先生、中国茶研究家の王静先生を紹介しました。
みなさん、こんにちは。熊谷優一です。当ブログでは度々、公益財団中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所長の大村幸弘先生を紹介してきました。お目にかかったのはわずかな時間でしたが、私の教育観に最も影響を与えた人物の一人です。その時のことは以下のエントリーで書いているので、もしよかったら読んでみてください。
大村先生に初めてお目にかかったのは今から20数年前、内閣府青年国際交流事業の参加青年として約1ヶ月にわたって派遣されたトルコの、カマン・カレホユック遺跡ででした。今回はメソポタミアの遺跡発掘で有名な松本健国士舘大学名誉教授と対談されるというので、出張のついでに三鷹市にある中近東文化センターに伺いました。
学問と戦争
正直、メソポタミアのイメージも漠然としていて、中東のどっからへんくらいの認識しかありません。松本先生が発掘研究をされていいるのはイラクのキシュというところだと聞いても、やっぱりピンときませんでした。
松本先生は、そのことについて次のように触れています。戦争が日本人をイラクから遠ざけて、馴染みのない国にしてしまった。日本政府が先生が発掘調査をされてきたキシュを危険地域と指定しているため、もう20年も現地に赴いて発掘をできていないんだそうです。
最後は9.11が起こった時で、大使館からも大学からも即刻帰国するように命じられ、発掘し出したばかりの遺跡を泣く泣く埋めてきたとお話しされていました。中東は長らく戦争が続いていましたよね。発掘調査と戦争は切っても切れないと残念そうにおっしゃっているのが印象的でした。
研究者の純粋
先生が発掘することになった遺跡はダムを建設するというので、イラク政府からの発掘してくれとの打診があってのことだったそうです。が、ドイツやイタリアなどヨーロッパの発掘団は一番最後に水がやってくるエリア、そして電気や水道が通っているところに近く、便利に生活ができるところを選んだのに対し、日本の発掘団は電気もガスもなく、住人が全員引っ越した後の割と早くダムに沈むエリアだったそうです。現地人がなんでそこまでしてと呆れたり、先生自身がその辺を流れている川の水を飲んで肝炎になったりしても、発掘できる喜びの方が優っていたと笑っていました。
それに対して、大村先生も、ドイツとイタリアの発掘隊は考古学研究の歴史も長いから、色々知っていて、ずるいんだと返します。日本の発掘隊のウブさに対して、ヨーロッパはずる賢いという話で盛り上がりました。私はそのお話の中に、興味関心を持っていることを探究できるで幸せという研究者としての純粋をみたように思います。
そりゃそうですよね。いたりあにしてみればあの辺はかつてローマ帝国だったわけで、縁もゆかりもない日本人がイラクやトルコの遺跡発掘っていたって、なんで?って思われますもん。でもお二人はそこに強く惹かれるっものがあって、だから研究したいというのはわからないでもないんですが、でも、私はどうしてそこまで?って思ってしまいました。そんな浅はかさな私に松本先生は穏やかに、そしてにこやかに、こう言いました。
日本人の文明論
日本人の文明論を作りたいんです。歴史的にその地域が領土としたことがない日本人だからこそできる解釈、分析、記述がある。そもそも、私たちはヨーロッパが作った文明論をいつまでも受け入れているだけでいいのでしょうか。
日本とは縁もゆかりもなさそうなメソポタミアやカマンの遺跡を日本人が掘る理由。確かに私たちが持っている文明の知識はヨーロッパの考古学者たちの研究の成果に基づいています。長い歴史の中でその地を支配した民族からでない視点がもたらすもの。
私はふと風に包まれているような感覚になりました。私はなぜヨーロッパで生まれた教育プログラムを税金を使って日本の学校でやらなければいけないのかという葛藤。それでも日本で、アジアでそのプログラムをやることによって、ヨーロッパ中心的な教育内容とアプローチに私たちの視点、アジアの風を吹き込むことができるのではないかという期待。
大それて聞こえるかもしれませんが、私が国際バカロレアをやる理由はそこにあります。吹きすさぶ風に煽られて、訪れた心の凪。私は爽快な気持ちでした。
最後に
20数年前、何層にも渡って様々な時代の遺跡が重なり合っているトルコの遺跡発掘現場で、大村先生はこのように話されていました。
「自分の一生で掘り切れるほどこの遺跡は小さくない。だからこの遺跡の全容を解明し、その価値を世界の人々に知らせるためにこの研究を発展させられる人材を育てなければいけない」
そのことに触れ、「では、何世代かかるでしょうか」と先生に聞くと、「コロナのようなことも起こりうるから、最低でもあと3世代はかかるのではないか」とのこと。とすると、もうひとつ聞きたくなります。
「その思いを3世代にわたって引き継ぎ、研究を進め、全容を明らかにするために必要な知識や技能を教えること以外に、私たちが育てなければいけないことはあるでしょうか」
すると大村先生は「粘り強さでしょうね」と静かにおっしゃいました。
どんなに困難な状況になっても、どこかに足がかりを求めて継続を試みる。世代を超えて、時代を超えれ、私たちの先輩方もそうやってバトンを繋いできました。コロナ禍や戦争などさまざまな社会情勢で、色んなことが中止されたり、断念されたりする中でも、なんとか灯火を消さず、可能性を探ろうとする心。
私はそれを「希望」というのではないだろうかと空を見上げ、目頭を熱くして中近東文化センターを後にしました。サインしてもらった大村先生の著作を手にして。
追伸:バスで武蔵境の駅に着くと、中東文化センターから電話がありました。「熊谷さん、荷物を全部お忘れです」と。顔から火が出る勢いで、恥ずかしくなって、何度も謝りながらタクシーで荷物を取りに戻りました。何かに熱中すると全てそっちのけになってしまうんですよね。どうしてこうなんでしょう。