街角は様々な問いで溢れています。本屋に並ぶ書籍、アーケードで聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知の目覚め」の合図です。
現在、「ToKtober Fest 2020」と題して、それまで当ブログ(チノメザメ)で取り上げてきた知の理論(国際バカロレア・ディプロマプログラムの世界必修科目)の視点をもう一度振り返っています。前回は、「私たちはどのように知るのか」という、TOKの基本的な問いである認知の方法について取り上げました。
知の理論(Theory of Knowledge: TOK)でとりあげる認知の方法は、言語・知覚・感情・理性・想像・信仰・直観・記憶の8つです。このフレームを用いて、今回は「おいしさ」について考えてみたいと思います。
あんなに暑かった今年の夏も懐かしいくらい秋も深まり、日に日に涼しくなってきています。秋といえば食。飲食店はあれやこれやと、旬の食材を使ったメニューを前面に出して、それがあたかもおいしいかのように宣伝していますよね。でも、私はいつも疑問に思うのです。そこまで本当においしいのか、と……。
おいしさの想像値
posted with カエレバ
私が幼稚園生の時によく読んだのは、「かこさとし」の本でした。その中に、『カラスのパンやさん』という本があります。その本に描かれたパンがおいしそうで、勢い余って、気仙沼のとあるパン屋さんに頼み込み、パン作りの工程を一日見せてもらいました。
そのパン屋さんはケーキも作っていて、そのショーケースのケーキたちが何とも美しい。イチゴが載っていたり、メロンが載っていたり、すべてのケーキがきらきら輝いて見えました。さぞかしおいしかろう。私はその見てくれからケーキの味に想像を膨らませます。ショーケースにへばりついた私を気の毒に思って、お店の人が一つケーキをくれました。そして一口頬張るやいなや、期待は一瞬にして失望に変わりました(でも、お店に人には一応おいしいと言いました)。
あんなにおいしそうなのに、この程度の味なのか……。私が予想していた「ケーキ」という食べ物のおいしさが10だったとすると、正直そのケーキはその半分も満たしていませんでした。でも、ケーキは美しい。いつか本当においしいと心底思えるケーキにであるかもと、都度都度期待して食べるのですが、やっぱり私が想像するケーキのおいしさを満たすものには未だに出会っていません。
食べ物のおいしさには見た目とか、匂いとか、高級感とか、様々な要因から想像される「おいしさの値」があると思うんですね。その値が低いにもかかわらず、想像値を超えた場合、その食べ物はおいしいという称号を得るわけです。しかし、想像値が高いのに、その値に到達しなかったものは、「おいしくなくはないけど、そんなにおいしいというわけでもないという領域の食べ物」になってしまいます。
こんなにも美しいのに……
posted with カエレバ
かこさとしの『カラスのパンやさん』という絵本は幼少期の私のおいしさという非常に主観的な形容詞の理解に大きな影響を与えました。その本に描かれたパンに非常にテンションが上ったのを憶えています。勢い余って、気仙沼のとあるパン屋さんに頼み込み、パン作りの工程を一日見せてもったほどでした。自分でも驚きますが、気になったことには猪突猛進する幼稚園生でした(笑)。
そのパン屋さんはケーキも作っていて、そのショーケースのケーキたちが何とも美しい。イチゴが載っていたり、メロンが載っていたり、すべてのケーキがきらきら輝いて見えました。さぞかしおいしかろう。私はその見た目の美しさからケーキの味に想像を膨らませます。ショーケースにへばりついた私を気の毒に思って、お店の人が一つケーキをくれました。そして一口頬張るやいなや、期待は一瞬にして失望に変わりました。
あんなにおいしそうなのに、この程度の味なのか……。私が予想していた「ケーキ」という食べ物のおいしさが10だったとすると、正直そのケーキはその半分も満たしていませんでした。でも、ケーキの見た目はこんなにも美しい。こんなにも美しいのに。でも、お店に人には一応おいしいと言いました。
味わう前においしさを判断するプロセス
このことを振り返ってみると、私が何かをおいしさかどうかの判断には、目から得る情報が大きいのかなと思いました。この場合、私は知るための方法の8つのカテゴリーのうち感覚、中でも視覚からケーキのおいしさに想像を膨らませ、実際に食べる経験を通して、味覚をもって想像したよりおいしさには満たなかったと知ったと分析する事ができます。
このことから、私は経験する前の段階における認知は視覚が優位であるということが主張できるかもしれません。が、これは過度な一般化です。たった1つの事例を証拠に一般則を見出そうとするのは非常に危険です。
しかしながら、視覚がおいしいかどうかを判断するひとつの目安になる可能性があることには異論はありません。デパ地下のお惣菜がそうです。ショーケースきれいに飾られた(?)お惣菜はとってもおいしく見えるのですが、実際買って食べてみると、そうでもないということ皆さんはありませんか?ちょっとがっかり。これ、感情ですね。
おいしさはとても複雑だ
私たちは視覚を通して様々な方法を得ています。それは事実です。が、私たちの認知はそれほど単純ではありません。
見た目がおいしそうだからという理由だけで私たちはおいしそうだと判断しているわけではありませんよね。鳥の唐揚げを揚げる音、夕餉時に風に香るどっかん家(ち)のカレーの香り、病気のときだけ食べることを許されたレディボーデンやお正月や節句など特別なときだけ食卓に上る甘い甘~い茶碗蒸し(この話は13月シリーズで書きたいと思います)などなど、私たちは実に様々な要素からおいしさを判断しますよね。
あー、またクマユウ、面倒くさくなってきたなと思ってますね?私も時々、いちいち面倒くさく考える自分にやれやれと思いますが、ただ、こういう一見どうでもいいコトを考える習慣が学術的に思考を深め、広げ、多角的に考える力を育てるんのではないだろうかと思っています。
最後に
視覚の話にちょっと戻りますね。
アヒルに見えるか、ウサギに見えるか、っていう絵がありますよね。どっちにも見える絵です。ご存知ない方は「アヒル ウサギ だまし絵」でググって見てください。皆さんはどっちが見えますか?
でも、このとき注意しないといけないことがあります。私たちは完全に視覚だけを通して見ているわけではない可能性があるからです。この絵を見る前に、ドナルドダックの話をしていた、ピーターラビットの絵本を見ていたとしたら、その影響を受けているかもしれません。視覚から得られる情報は単にそれだけで解釈しているのではないかもしれないって思いませんか?
さて、今回はこの辺で。おいしさの議論はもう少し続けたいと思います。