海外留学のすゝめ 番外編

みなさん、こんにちは、熊谷優一です。久しぶりに韓国留学のことを振り返ることができたのは、世界中に散らばった当時の留学仲間たちがコロナウイルス感染拡大の影響下でどのように過ごしているかと連絡をとったことがきっかけでした。

みんな元気にやっているようでしたが、東南アジアやアフリカよりもヨーロッパのほうが状況は深刻のようでした。何はともあれ、こうして再び繋がることができたのもみんなが元気でいるからです。それぞれの中間地点、バンコクで再会することを約束してまた日常に戻っていきました。

挫折の果てに

韓国留学から帰国して8年。ようやく念願の日本の高校で教えられる韓国語の教員免許を取得しました。
無事に延世大学大学院に入学したものの、熊谷に待っていたのは厳しい現実でした。

2回に渡って、韓国留学のことについて書きました。その1ではなぜ韓国を留学先に選んだのかと奨学金を得ることになった経緯を、その2では延世大学大学院に入学後の挫折について触れました。

挫折の果てに私が至った境地は……開き直りです。そこで立てた戦略は、どうせ自己嫌悪に陥るなら、自ら進んでその機会を設け、それに慣れてしまおうということでした。具体的には、色んな意味で自分と最も遠い人と協働すること、そして何にでもすぐに手を上げて、一番に取り組むことです。

最も遠い人と協働することによって、私は私にはない視点と知識体系を手に入れることができます。その結果、努力することなく、自分が持っている知識外のことを相手から学ぶことができます。そしてもうひとつ、例えば教授が学生に発表を求める時、私は準備が全然できていなくても真っ先に手を上げて発表することにしました。上手く行かなくても、学生仲間からは「気が楽になった」と感謝されますし、うまくいったらうまくいったで、「参考になった」と感謝されます。上手く行かなくてバカにしてくる人とはもう付き合わないですみますしね。

しかし、何よりも私自身が何が十分に理解できていて、何が理解しきれていないかを発表の出来から自覚することができます。理解していることは準備しなくても、すらすら話せるものです。逆に、わかっていたつもりでも、いざ発表となると上手くできない時があります。その場合はそこに焦点を当てて補強すればいい。わかりきっていないことを特定できれば、あとはやることは決まってきますから、闇雲に不安になりません。

日本留学生会創立

東日本大震災をきっかけに、私は延世大学で学ぶ日本からの留学生に声をかけ、「延世大学日本留学生」を立ち上げました。大学にも掛け合ったところ、快く支援してもらうことができ、国籍を問わず日本と関わりのある100人近くの学生たちの団体として、募金活動を行いました。困難の状況にある人たちを何らかの形で支援したいという人たちがたくさん協力してくれました。その時のことは、協力を呼びかけた私のメールや新記事など、ネットで検索すればまだ残っているかもしれません。

私はこの時、自分に何ができるのかを考えました。そして留学生会を作ろうと行動しました。生徒会の顧問を長らくしていたこともあり、団体を作って、イベントを計画運営することは慣れていましたし、何かしたいというメチベーションが高い人達を集め、組織することは母国が困難な状況橋にある仲、私が最も貢献できることだと思ったのです。

少額であっても、善意の寄付をもらうということには目的意識と責任感を持って、何のために募金し、どこに寄付をし、何のために使うのかを説明できなければいけないと思い、私案を作った上で、それをたたき台にして活動方針を話し合って決めました。

もう一度教員になったらどうか

私が被災地出身だと聞いて、韓国、日本の報道機関から取材依頼が絶えませんでした。中には、原発の是非について討論するテレビ番組に出演してほしいというテレビ局のプロデューサーから電話がかかってきたこともありました。私はそのことについて十分な知識を持っていないので、丁重にお断りしました。

あれは、日本の新聞社の取材を受けたときのことだった思います。記者の方が私に、「熊谷さん、あなたもう一回日本で先生やったらどうですか?」と言うのです。他の大学の日本人学生の活動も取材したが、延世大学の日本留学生会の活動は目的もはっきりしていて、それが共有されている。参加している人たちは自分が何らかの貢献ができることを自覚している。このような組織を作れたのはあなたが先生をやってきたからだ。そういう人が今、日本で求められている、と。

私は自分ができることはそれくらいしかないと思っていたので、そのことが評価されて面食らいました。教員を辞めて、大学院で勉強が必要だと思ったのはそもそも教員として求められる知識やスキルが圧倒的に不足しているからであって、充足していることがあったのかと驚いたのを憶えています。

最後に

血を吐くまで勉強した結果、私はいい意味で開き直って、「おっさんだけど、どうせ一番できない子ですから」くらいの気持ちで何かにやってみることにしました。失敗してもその原因を特定し、対策をねれば、すべてのことは改善・成功に繋がります。そういった意味で、上手くいかなくても凹む暇があったら工夫せよと自分に命じました。必ずしもその通りいかないのも人生ですがね……。

韓国語を勉強する時に心がけていたことが一つあります。できる限り知らない人と話す機会を作ることです。友だちは間違っていても、上手く伝わらなくても、私のことを知ってくれているので、何を言おうとしているのかわかってくれるんですよね。

ありがたいけれど、それでは私の韓国語能力は上達しませんから、色んなイベントに参加したり、ソウル市内やその周辺の市場に行ったり、できる限り多様な韓国語母語話者と話すようにしました。年代、職業、性別、専門分野によっても話し方やその使用語彙範囲は変わってきますからね。

度胸がないとなかなか難しいと思うのですが、そこは勉強しに来ているんだし、一生懸命自分の国の言葉を話そうとする外人を無下にしないだろうと割り切りました。一番優しくしてくれたのは、いわゆる「아줌마(アジュンマ:おばちゃん)」達でしたね。田舎に行けば行くほど、おばちゃんたちは情が厚くなるというのはユニバーサル・ローじゃないかと思います。

さて、これまで3回にわたって韓国留学について書きました。ここで一旦、終わりにしたいと思いますが、思い出したこともちょいちょいあるので、それはまた回を改めたいと思います。

次回(7月3日更新予定)は私の散歩仲間、香里ヌヴェール学院小学校の校長先生が登場します。どうぞお楽しみに!