「Most Likely to Succeed」上映会 at 気仙沼 特別編

読者のみなさん、こんにちは。はじめまして。宮城県にある石巻市立桜坂高等学校の阿部浩人です。

熊谷優一くんとは、今からおよそ20年前、最初は陸上部顧問として、その後は生徒会担当として、大会や合宿で何度か一緒になっていました。本吉地区の生徒会合宿のことは、熊谷くんも「Most Likely to Succeed」上映会 in 気仙沼 前編で書いてくれています。情報交換と仲間作りが目的の合宿でしたが、生徒たちはもちろん、教員たちも楽しく参加していました。

熊谷くんはいろいろなおもしろいアイデアを出す人でした。まさに「おだづもっこ(ふざけたがり)」というか、彼自身が楽しい人であるだけでなく、周りを楽しくする人でしたね。

そんな熊谷くんと気仙沼での上映会で十数年ぶりに会いました。映画も興味深いものでしたが、熊谷くんの見事なファシリテーションによって、上映会場は素敵な学びの場になりました。様々な立場の参加者一人ひとりが、自分のこととして考える機会になったと思います。

きっとそういうことが間もなく開催される「ナレッジキャラバン in 大阪 2019 夏」のアイディアに繋がったんど絵はないでしょうか。

2019年8月25日(日)に大阪女学院中高で開催する本イベントの受付が本日より始まります。

同じこと同じ時間

さて、映画「Most Likely to Succeed」についてです。日ごろ学校で仕事をしながら感じていたもやもやが、この映画を見て少しはっきりしたように思います。「みんなが同じことを同じ時間に学ぶ」ことが中心の、今のままの学校では、うまくやっていけないんだろうな、ということです。

しかし、高校では今年度から「総合的な探究の時間」が始まりました。自分で学ぶテーマを設定し、学びを深めていく時間です。これは「Most Likely to Succeed」の学校の取り組みに近いものです。次の学習指導要領では「探究」とついた新科目もあり、期待もありますが、今の学校で、どのようにできるのか、疑問がないわけではありません。

探究させられ学習

1つめ。「生徒が学びたいことを学ぶ(選ぶ)」ということは、可能なのか。学校(教員)の側からの「生徒に身に付けさせたいこと」と、どう折り合いをつけられるのか。「学校で」行う「授業」という枠がある時点で、生徒自身が学びたいことを学ぶということにならないのではないか。

熊谷くんがこの前、教育業界で盛んに喧伝されている「探究学習」とか「アクティブラーニング」を、教員側からの生徒への新たな押し付けではないかということを話していました。「探究学習」ではなく、「探究させられ学習」じゃないのか、と。

そもそも生徒は(今、授業で学んでいるようなことを)学びたいのだろうか。とはいえ、最初は「授業だから」「やらなければならないから」というところから始まったとしても、やっているうちにおもしろくなり、自分から学びを深めていくこともあるだろうとも思います。やってみる機会を、(強制的に)与えることができることは、今の学校の利点かもしれません。

公平で公正な評価

2つめ。一人ひとりが違うことを、違う時間に学んだとき、公平な、公正な評価ができるのだろうか。

評価はともかく、現在のような数値による成績や「出願の条件は評定平均値4.3以上」のようなものは難しいのではないだろうか。だからといって、生徒のすべての学習に数値でない成績をつける、というのもなかなか現実的ではないですが……。

仙台で行われた「Most Likely to Succeed」上映会後のディスカッションでは、「30年後に学校からなくなっているものやコト、人」の中に「成績表」を挙げた人がいたそうです。今バブルを迎えている「eポートフォリオ」が評定に変わっていくのでしょうか。

こういった話し合いの場が、大人を対象とした勉強会「オトナキャラバン」を熊谷くんが始めた動機なんだと思います。立場の異なる人たちが話し合うことで起きる違和感。その先に私たちが考えるべき、解決していくべき課題があるのかなと思いました。

なにはともあれ、今現在の勤務校での仕事だけを見ていれば「難しい」としかいえないことも、何とか乗り越えていけるように、私自身がもっともっと学ぶ必要があると改めて感じました。

最後に

先日、2年生の現代文の授業で読んだ教材に関連して、生徒に「自分らしく生きる」というテーマで作文を書かせました。多くの生徒が、自分が思ってもいないのに周りに合わせて「おもしろい」とか「かわいい」とか言わないようにすることが自分らしく生きることだ、というようなことを書いていました。なかなかそうは言えない自分がいる、と感じていることの表れなのかもしれません。ただ、自分の意見が、全く他人の意見の影響を受けない、ということも考えられません。誰かがおもしろい、と言っていたから関心を向けてみたことで、自分もおもしろいと気付くということもあるでしょう。

これからも、学校(教員)は生徒たちに「これもおもしろいよ」「やってみようよ」と声をかけ、背中を押す役目を果たしていければいいのかな、と思っています。