ToKtober Fest 2020:問いといちゃもん

街角は様々な問いで溢れています。本屋さんに並ぶ書籍、アーケード内で聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知」が目覚めの合図です。

前回から「ToKtober Fest 2020」と題して、これまで当ブログ(チノメザメ)で取り上げてきた知の理論を視点をもう一度振り返って見たいと思っていたのですが……。

問いといちゃもん

この間、同僚から、「熊谷先生ってはじめは、いちゃもんをつけたがる人なんだと思っていました」って不意に言われたんですね。その後、フォローされたと思うんですが、私に心にはもう何も届きませんでした。

確かにこのブログを読み返してみても、私は問いのつもりで書いたことが、見方によってはただのいちゃもんって捉えられるなと。友人と商店街を歩いていて、「焼き立てがおいしい」と宣伝するパン屋さんの張り紙を見て、「当たり前のことを言い過ぎている。焼き立てすら美味しくないパン屋なんてあるのか」なんて疑問を呈したつもりでも、その友人からしたら、「また面倒くさいのが始まったよ」くらいに思われてたんだろうなと思ったら、ちょっと怖くなったんですね。

小学校のときも、中学校のときも、高校の時も、私がどこにも、誰にもはまらなかったのは、みんなから私がいつもいちゃもんをつける人と見られていたかもしれない。私が人から嫌われる理由のひとつがそこにあるように思えて来てですね、あれこれ考えあぐねて長い夜を過ごしました(笑)。

次の日、とあるIB生と話しているときにこの話題を出したら、「私も最初そう思っていました!」って共感を得たみたいなはしゃぎようでした。「そんなことありませんよ」って言ってほしかったのに、とんだやぶ蛇でした……。

深層心理を読み解く

その生徒は、その後でこんなふうにフォローしてくれました。

「今は、面白いって思えます。疑問にも思わなかったというか、そういうもんだって受け入れるだけだったのに、一回考えてから受け入れたり、受け入れなかったりするようになりました。そもそも、先生はいちゃもんつけてるって他の人から思われても、問うことをやめない人だし、誰からも好かれなくてもあんまり気にしない人じゃないですか?」

そう言われて気が付きました。私が「いちゃもんをつけている人」であることを同僚の先生に指摘されたときに芽生えた感情の大元は、人から嫌われたくないって思いなんだと。そうか、と。なんだかんだいって、私がいつもくよくよするのは、人からどう見られているのかを実はものすごく気にしているんだということなのかと。

でも、一方ではその生徒が言ってくれたように、私は自分の興味関心を押さえられなくなったときは、心底そのことについて知りたくなってしまうときは、人からどう思われるかなんて全く気にならないことも知っています。

自分という人間の認知のしかた

自分でも面倒くさい人間だなぁと思うことはあるのですが、国際バカロレアという学びかたと教えかた、そして「知の理論」という科目を知って、私は小学生の頃から感じていた学習に対する「いずい感じ(違和感)」が解消されました。これでいいんだって、自分という人間の認知の仕方、世界との関わり方を肯定できました。

古典の時間に鴨長明の方丈記の出だしを読んで、世界は物質でできていて、それは運動する(変化する)ってことを言ってるんだとしたら古典を読むって意味違うくなるなと思ったときの興奮。命は一個の細胞たちから構成されているってことと、英文が音と音の組み合わせで単語になって、もろもろ結びついて意味をなす文ができるってとこ似てるなって思いつつ、でも機能するとしても美しいとは限らなんだよなぁ、と教室の窓越しに空を見ながら感じた刹那。

私は学ぶことを通して、この年になっても、「へぇ」って驚くことがあります。自分という人間がこんなふうに反応するのかって。それってきっと一生続くんだろうなと思うんですね。だから、自分自身がどういう人間なのかを知りゆくという点で、全ての学びの過程はセラピーであると前回のエントリーで書いたわけです。

最後に

自分が予想していた、もしくは期待していた反応と違う反応をすることってありませんか?そこが自分を振り返る絶好のタイミングです。なぜなら予想・期待される自分の反応は何に基づいていたのかを見つめるきっかけになるからです。それは個人的な経験の蓄積によって分析された反応かもしれないし、何かの思い込みによる反応かもしれません。

そういう自分を見つめることって自分一人ではなかなか設けられないんですよね。本を読んだり、人の話を聞いたり、誰かと対話したり、学んだりっていうタイミングで、「あれ?」って私は気づいてきました。

時に、私の問いはいちゃもんをつけているように聞こえるかもしれません。でも、私の中ではそれは問なんです。どうか、嫌いにならないでくださいね。私って言う人間の根底にはどうやら人からよく思われたいって思いが強いみたいです。