犬は吠えるがキャラバンは進む vol.2-2

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みなさん、こんにちは。熊谷優一です。

今日は早速、共有された知識についてディスカッションしたことを踏まえて、今の段階で生徒たちがどのような仮の結論を出したのか、オムニバス形式で語ってもらおうと思います。彼らがブログに登場するのは、これがそれぞれ2回目になります。では、ブログにエントリーを書いた順番でいきましょうか。

浅見昌弘の場合

私は国語の授業で、文学作品は読み手や読む状況により捉え方が違うと教わったので、芸術から読み取った感情はパーソナルだという意見を持っていました。この議論を通して、感情に至るまでの過程は違えど、類似の経験をしていれば、うれしいや悲しいなど、共通の感情概念に行きつくという見方があることを知りました。特に面白い視点は、感じたことを言語化して、それを完璧に伝達するのは不可能ではないかという点です。

しかし、私たちの中に確かに感情は存在しています。感情は完璧に言語化されない、そして完璧に共有することは難しいというものの、例えば「悲しい」とか「嬉しい」といった、ある感情の存在を知ることができるのはなぜでしょうか?

私たちは経験から得た潜在的な感情を無意識に客観的に認識することで、はじめて「ある感情」の存在を認識するのだと私は考えます。ただ、それを意識的に気付く可能性も否定できません。例えばある人を「○○である」という感情が他者に指摘されて「○○」という感情を認識することがあるからです。 でも、認識してなければ感情は存在しないというのも乱暴な気がします。だって言葉を知らない赤ん坊でも、動物にも多用な表情があり、そこに何らかの感情は読めとれるからです。

大人の笑顔は信用できませんが、赤ん坊の笑顔には真実があるとみなさん思っていますよね。「笑顔」ひとっても、受け取り方は違いますが……。TOKでいうところの、「直観」に頼るしか最終的にはないのかな……。うまくまとまりませんが、私はこの議論でそんな風に考えました。

鹿間謙伍の場合

今回のディスカッションを振り返ると、「感情は共有されるかどうか」がテーマにも関わらず、出来事の共有について喋ったり、そこを出発点としていることが多かったように思います。

僕は、「共有とは何か?」「感情が共有されたとはどういう状態か?」という視点からこのテーマについて考えてみました。そして、「ひょっとしたら、共有の対象って、点じゃなくて、神経細胞みたいにいろいろなものが繋がっているのではないだろうか?」と紐解いていくと、数学の議論(モデル化)に導けることに気づきました。

例えば、共有の対象を3つにして考えてみます。出来事・感情・時間です。出来事の印象度が強ければ、感情の正負も強くなり、逆も考えられます。感情の正負が強ければ、出来事の印象度が強くなります。出来事の印象度と感情の正負はお互いに相互関係にあると考えられます。感情が先か、出来事が先か、それはつまり時間によって変わります。また、過去の出来事を時間がある程度経った時に思い出したら、印象度が薄くなったり、あるいは逆に強くなったりします。

この感情と出来事が相互に影響し合っている状態のことを共有と呼ぶことはできないでしょうか?感情の共有が実感できるとは、様々な共有の対象の共有係数の大きさと感情の印象度で、数学的に議論できるということです。僕はそんな風にこの議論を捉えてみました。

塩田匠の場合

私は、完璧なる感情の共有はありえないという結論に達しました。

というのも、自分達の経験、知識、性格、バックグラウンド、興味関心、その時々の精神状態など、何ひとつとして同じということがありえないからです。例えば、つい最近見た植松努さんという方のTED Talkで、彼自身の様々なつらい経験や平和に対する思いを語っていたのですが。彼と私には。「平和に対する思い」、そして「いじめの経験」という共通項がありました。でも、似通った経験をしていても感じていることは異なり、完璧な感情の共有は成しえなかったです。

トランプ大統領は先日こんなことをつぶやいていましたよね。「多くの事態を抱える、非常に行動的な大統領として、代理人が完璧な正確さで(記者会見に)臨むことは不可能だ!」と。彼はこの一言で、完璧に情報が伝達する可能性を否定しています。したがって、感情の共有はありえないと私は思いますし、感情が共有されると主張する人は希望を述べているのではないかと思います。現実はそうではないと私は思うのですが……。

酒井優輔の場合

僕は知識を共有することはそもそも不可能であると考えます。「共有される」という言い方の後ろに、いろんな意図を感じてしまいます。本当に共有されている状態のかどうか、僕たちはちゃんと見極めなければいけないのではないでしょうか。「感情」の共有という点から、僕の考えを説明したいと思います。

議論でも述べた通り、僕は「感情」を完璧に言語化することは不可能だと考えています。なぜなら、僕自身が日常生活で感情を他者に伝えることに不自由さを感じているからです。例えば、きれいな自然の風景を見たとき僕は感動します。言語化してしまえば「感動した」の一言で片付いてしまいますが、心の中は、もっと複雑な「感動の動き」をしています。

こんな時に不自由さを感じるのです。これは単なる僕の語彙不足かもしれませんが、それは同時に多くの語彙を使用しなければならないほど「感情」という情報は複雑で伝えづらいものであるということを意味しているのではないでしょうか。また、発せられた語彙に対しての理解も人それぞれです。同じ語を使用したとして同じ情報が共有されたと言い切ることは出来ないはずです。

今回は知識を「感情を表現する語彙」として考え、共有の不可能性を述べました。この知識には人それぞれの背景があるため共有が難しいのだと考えます。以上の理由から僕は知識が完璧に共有されることはないと考えます。

稲富爽太の場合

私は知識が共有されるという主張に対し、完全に共有できるということを求めることはできないと考えています。共有されるという現象は必ずしも大々的なものでなく狭い範囲で起こることではないでしょうか。この根拠について、私の実体験に基づいて書きたいと思います。
私は中学生まで野球をしていたので、野球を例に挙げます。ある練習試合で、私たちのチームは勝つことができました。しかし私は、試合中エラーをしてしまったり、自分の仕事をこなすことができなかったと「悔しい」思いをしました。私たちのチームには試合後に必ずミーティングを行いその日の試合の振り返りをします。

その中で、私は私の「悔しい」感情を発表しました。しかしチームメイトの中には、あそこの場面で打つことができてうれしかった、ピッチャーとしていい球が投げられなかった、などの反省が出てきます。
そのなかにはポジティブなものとネガティブなものが上がっていました。多くのチームメイトのふりかえりで共通していたことには「まず、勝ててうれしい」というものがありました。

このことより、チーム内で各々が思っていることがあるにせよ、チームが勝つことができたという事実(ファクト)にたいして、試合に関わったチームメイトの間で「うれしい」という感情の共有はできていたと考えられます。感情の共有はあるコアな部分で可能なのではないでしょうか。

まとめ

再び、クマユウです。皆さんがもし、この生徒たちの先生だったら、この議論をどのように収めますか?

彼らの主張はいろいろ突っ込みどころがあるのは認めます。でも、あからさまに、それは間違っていると言ってしまったら、その後生徒たちは先生と議論することを放棄するでしょう。こういった対話型の授業展開は、先生がどういうふうにコメントするのか、どのように生徒たちの議論で見過ごされている点に目を向けさせるよう促すのかといったスキルが求められると私は考えています。

私は一緒に考え、私が疑問に思ったことを生徒に伝え、その主張にどのようなエビデンスを示せるか、例示した内容が主張を支持するうえで適切かと問うようにしています。

今回の議論で生徒は「共有させる状態」の完全性にこだわったようですが、一方で、「知識が完全に共有されるとは言えないが、部分的に共有される」ことを認めています。とすると、その共有される一部にはどのような特徴があるかといった風にさらに議論を進めたら面白いなと私は思っています。

この5人の生徒の主張を議論する前に、みなさんにひとつだけ理解していただきたいことがあります。それは、彼らが自分の考えをこういったメディアで表明することには危険が伴うということです。正しい、正しくないといった評価を受ける可能性があります。

この前、あるお母さんから、すぐすぐ結果を出そうとせず、すべてのことにいちいち意味を持たせようとせず、若者たちの気づきを長い目で待つ姿勢も大切だとありましたよね。彼らの中には、「今、自分が持っている知識とスキルで出した仮の結論」を言語化し、当ブログで発信し、何らかのフィードバックを得ることで、気が付かなった視点を得て、知識の限界を広げたいという思いがあります。

どうぞ、みなさんの身近な若者たちの声に耳を傾け、彼らの思考の広がりにつながるよう、温かい目で見守ってください。

最後に、この議論に臆せず参加した5人の生徒たちに感謝して、お別れの曲は小沢健二で、「強い気持ち・強い愛」です。

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