街には様々な問いが溢れています。本屋に並ぶ書籍、アーケードで聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知の目覚め」の合図です。
ここ最近、『時間はどこから来て、なぜ流れるのか? 最新物理学が解く時空・宇宙・意識の「謎」』という本を課題図書に、国際バカロレア・ディプロマプログラムを学ぼうとしている高校1年生、そして大人を対象に行った読書会について紹介してきました。
問いは連鎖する
前回はその両方に参加した林歩香さんが感想を語ってくれましたが、読書会で彼女が大人に問うたのは、「時間における自分の居場所はどうやって確認できるのか?」ということでした。この問いから、彼女は時間を空間的に捉えようとしていることが窺えます。
この質問は、これまた両方の読書会のパネリストとして議論を主導した、Google 認定トレーナーの原田有先生(関東学院六浦中学校・高等学校)の以前のエントリーで、生徒たちがこの本を議論しているうちに出てきた「私たちは基準を持たずに何を理解することは可能か?」という問いに通じるなぁと思いながら、徐ろに心斎橋商店街を歩いていました。
原田先生は、課題図書をはじめ、「時間の流れ」を議論する際に、専門家はしばしば「光(光速度)」を基準にしていると説明しています。そうなんです。それなんです。私がいつも疑問に思っていたのは。
私は専門家ではないので、光の速さを基準に時間を捉えていません。常々、私は一般的な人間の命の長さ(100年くらい)を尺度にしか時間を捉えることしかできず、それより長い時間を実感できていないのではないかと思っていました。つまり、私は正しく時間を理解できるのか、と。
基準を設けることなしに私たちは何かを理解できるのか
そんな時にこの本を読み、原田先生、梶木尚美先生、阿部公彦先生、そして生徒たちと議論しているうちに、私たちが何かを理解する際には、基準を設けているということに気が付きました。原田先生は、「私たちは日ごろ、『私たち』を主役にして物事を解釈しています。全ての事象を理解できるようにする試みがここにはあります。」と語っています。
でも、その基準って、「私(たち)」が誰か、どんな人なのかによって変わる可能性がありますよね。それぞれの「私(たち)」の基準が異なる場合、理解に不都合が生じますから、その基準を統一しようという試みがそれぞれの学問領域で起こったことは納得できます。
ということは、基準は、合意の課程を経て設定されることを示しています。また、その基準があるからこそ世界の見方を共有できることも気づかせてくれるわけですが、どのような基準を設定するかによって、私たちが世界のあらゆる事物を解釈する際の側面も異なることがわかります。私たちが用いている様々な基準はどのような課程を経て合意されたのでしょうね。そしてその基準によって明らかになったり、明らかにならなかったりすることはどんなことなんでしょうか。
コトバと基準
そんなことを考えながら心斎橋商店街を歩いていたのですが、ふと言語における基準はどんな風に現れているのかが気になり始めます。当時、私は韓国語の形容詞(主に接尾語が하다系の形容詞) にハマっていたこともあり、対義となる形容詞について考えてみることにしました。なぜそうしたのか……我ながら自分の思考回路がわかりません(笑)。
例えば、「大きいー小さい」「広いー狭い」「高いー低い」「長いー短い」の組み合わせを考えてみたときに、私たちはどちらを基準にしているでしょうか。名詞形にしてみて、疑問文を作ってみるとわかりやすいかもしれません。「大きさはどれくらい」「どれくらい広い」などなど、何かを計測する場合は、ゼロより遠い方を基準にしていることがわかります。これ、英語と韓国語でも考えてみたんですが、少なくても3つの言語では同じ傾向が見られました。
ゼロより遠い方で計測する……。何かを計測するために、人は基準を作ってきたわけか……。では、計測することによって人類はどんな知識を獲得したのだろうか。計測することが知識の生成にどのように寄与したのだろうか。計測できなかったモノやコトが何らかの基準が設けられて計測できるようになり、何が変わったのだろうか。現在の私たちがまだ計測できていないモノやコトにはどんな事があるだろうか。
最後に
形容詞を例に基準について私なりに推論してみたものの、そこから派生する疑問がどんどん湧いてきて非常に困ってしまいますが、行き着く先は数学なのかなと実感しています。
時間を正しく理解しているのかに端を発したこの登山は今、数学という中腹で一休みです。次の峰に向かう道からはどんな景色が見えるか楽しみです。