筑坂では麦の穂が風に揺れています。みなさん、こんにちは。熊谷優一です。
この麦は2学期に発酵の授業でパンになり、校内で販売されます。パンが焼けるにおいって殺人的ですよね。早々に売り切れてしまうので、生徒はみな血相を変えてパンの列に並びます。私も並ぶのですが、売り切れてしまうことも多く、なかなか手に入れることができません。
さて、TOK(Theory of Knowledge:知の理論)の「個人的な知識」と「共有された知識」について、私はまだうまくかみ砕いて説明することができないでいます。今回はその辺のお話しをしましょうか。
日本語版『「知の理論」指導の手引き』では……
「個人的な知識」について、日本語版『「知の理論」指導の手引き(p.18)』には以下のように説明されています。
知識は、1人または複数の人間によって再生されるものと見なすことができます。一方では、知識は「知るための方法」をはじめとする多数の要因の結果として、1人の個人が到達する成果物である売位もあります。こうした個人の知己は、本資料では「個人的な知識」と呼ばれています。
-『「知の理論」指導の手引き(p.18)より-
一方、「共有された知識」については、同じく日本語版『「知の理論」指導の手引き(p.18)』にこのように記述されています。
…知識は、複数の人が協力した結果の成果物である場合もあります。複数の人が強調するか、あついはより多いパターンとして時間的、地理的に隔てられた状況で協力する中から生成されることがあります。芸術田倫理などの「知識の領域」は、この形態に該当します。これらは「共有された知識」の例です。
-『「知の理論」指導の手引き(p.18)より-
具体例の中からTOK観を作りませんか?
上の説明を読んで……みなさん、言いたいことはよくわかります。私も同じ気持ちです。でも、ここであきらめないで!
国際バカロレア(IB:International Baccalaureate)の用語は、時にネイティブ・スピーカーでも理解しづらいと言われていますからね。それに、これは翻訳版。そして定義にしては含みを残した言い方!
これは、自分なりのTOK観を作っていくしかないんです。理解しようと思っても、どこかで必ず腑に落ちないことが出てきます。なので、具体例の中からTOK的アプローチで考えてみたらいいんじゃないかと私は思っています。
先日、浅見くんがこんな問いかけを私たちに投げかけたところから、またLINE上で議論が始まりました。迂闊にも乗っかってしまった自分を私は再度後悔することなります。
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中休み
このディスカッションは、そのあとも容赦なく続きました。このディスカッションの輪が、当ブログ(今からIBをはじめる君へ)を読んでいる筑坂の在校生にもにわかに広がりつつあって、最近は隙あらば、議論を挑もうという視線を感じます。
この議論にはいくつかの示唆があります。彼らは決して超一流の大学に進学したわけではありません。しかし、何か物事を多角的に見ようという態度は、いわゆる偏差値的学力の高い低いによらず、誰にでも備わっている可能性があります。また、日頃彼らが学習したこと、経験したことが自分の意見を組み立てる際に、活かされているということです。
私自身、すべてに明確な答えがあるわけではありませんし、すべての問答に応えられるわけでもありません。議論の中からその時々に出せる仮の結論を、生徒と一緒に考えるということしかできません。そして、彼らはもはや、自分の意見を表明することをリスクだと感じていません。自分の意見を言いたいし、人の意見を聞きたい。そこには安心感があるからでしょう。私の仕事はそこにあるのかな、なんて考えています。
さて、次回はこの議論の末に、生徒たちがどのような仮の結論を出したのかを見てみましょう!