<閲覧注意>ChatGTPを使って知の理論のエッセイを書いてもらってみた

3月9日に国際バカロレア機構(IBO)のホームページにChatGTPに代表される人工知能(AI)ソフトの仕様に関する見解が発表されました。折しも、2023年11月試験を受ける生徒向けに、『知の理論(Theory of Knowledge: TOK)』のエッセイの所定課題が発表されるタイミングでした。

『知の理論(TOK)』とは、ディプロマプログラムの世界必修科目3科目の一つで、提出期限の約6ヶ月前にエッセイ(英語では1,600語・日本語では3,200字以内)のお題(所定課題と言います)が6つ発表されます。その中から一つ選んで、そのことに対してエッセイを書くわけです。

ちなみに、昨年の11月試験のときのTOKエッセイの所定課題の一つにこんなのがありました。オリジナルの英語と日本語訳を紹介します。

If the artist has freedom to interpret past events in ways that are denied to the historian, is this an asset or an obstacle to our understanding of the past? Discuss with reference to the arts and history.

歴史学者には認められないような方法で過去の出来事を解釈する自由が芸術家にあるのであれば、これは過去の理解に対する財産なのか、それとも障害なのか。芸術および歴史に言及しながら論じなさい

皆さんだったら、このお題にどんな主張で答え、その主張をどんな事例をもって裏付けますか?

今回はこのお題をChatGTPにかけてみたいと思います。早速、上記の日本語訳を入れてみると、こんな風に返って来ました。

芸術家が歴史的な出来事を解釈する際に自由度があることは事実である。芸術は人間の感性や感情に訴えかけ、歴史的な出来事を描写することで、その時代の文化、社会、政治的な状況を反映することができる。しかし、芸術と歴史は根本的に異なるものであり、芸術家の解釈には歴史学者が批判的な目で見る必要がある。

まず、芸術家は歴史的な出来事を描写する際に、自分の感性や感情に基づいて、過去の出来事を再構築することができる。芸術は個人的な表現であり、芸術家は自分の感性に基づいて、過去の出来事を描写することができる。そのため、芸術作品は歴史的な事実を忠実に反映しているわけではなく、芸術家の解釈や表現が反映されていることがある。このような自由な表現は、芸術的な価値を持つものであり、芸術家によって新しい視点や感性が生み出される可能性がある。

一方で、芸術家には歴史的な正確性を求めることができないという問題がある。歴史的な出来事は事実として存在し、それらは歴史学者によって批判的に検証される必要がある。芸術作品は個人的な表現であり、芸術家が歴史的な正確性を求めることはできない。歴史的な出来事を適当に扱うことは、誤解や歴史的な虚偽の拡散を招く可能性があるため、歴史学者からは批判的に見られることがある。

また、芸術家による歴史的な解釈は、歴史学者にとって新しい視点を提供する可能性がある。芸術家は過去の出来事を描写することで、その時代の文化や社会、政治的な状況を表現することができる。そのため、芸術作品は歴史学者にとって、その時代の文化や社会に関する新しい情報源としても機能することが

ここで途切れたので、「続けてください」と打ち込むと、次のように出てきます。

しかしながら、芸術家の解釈は必ずしも正確であるとは限らず、歴史学者は批判的な目で芸術作品を見る必要がある。芸術作品は、その時代の文化や社会に関する情報源として機能するにしても、その情報は正確性や客観性に欠けることがあり、単に芸術家の感性や解釈に基づくものであることがある。そのため、芸術家による歴史的な解釈は、歴史学者にとって新しい情報源として利用される際には、慎重に検証される必要がある。

また、芸術作品による歴史的な解釈は、歴史的な事実を歪めたり、歴史的な事実を無視したりすることがある。例えば、芸術作品によっては、ある歴史的な出来事が過剰にロマンティック化されたり、ある歴史的な出来事が無視されたりすることがある。このような芸術作品は、歴史的な出来事を歪めたり、歴史的な出来事の真実を歪曲したりする可能性があるため、歴史学者からは批判的に見られることがある。

したがって、芸術家による歴史的な解釈は、その時代の文化や社会、政治的な状況を表現する上で重要な役割を果たすことがあるが、その解釈には歴史的な正確性や客観性に欠けることがある。歴史学者は、芸術作品を慎重に検証し、その解釈が歴史的な正確性や客観性を持つかどうかを見極める必要がある。芸術家と歴史学者は、互いの視点を尊重しつつ、過去の出来事を共同で理解し、表現することが重要である

ここで、「事例はありますか?」とうってみると、次のように出てきました。

歴史的な出来事を題材にした芸術作品には、さまざまな解釈や歪曲が見られます。以下にいくつかの事例を挙げてみます。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」:この絵画は、キリスト教の聖書に登場する最後の晩餐を描いたものであり、芸術家の解釈によって聖書の情景が表現されています。しかしながら、芸術家の解釈によって、聖書の記述とは異なるポーズや構図、聖人の表現が加えられています。

シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」:この戯曲は、古代ローマ時代におけるジュリアス・シーザーの暗殺を描いたものです。シェイクスピアは、歴史的な出来事に基づいているものの、芸術家の解釈によって、史実と異なるストーリー展開や人物描写が行われています。

ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」:この絵画は、17世紀オランダの生活を描いたものであり、芸術家の解釈によって当時の服装や家庭の様子が表現されています。しかし、絵画に描かれた少女の表情や姿勢は、当時のオランダの少女像を歪曲して描かれていると指摘されています。

これらの事例からもわかるように、芸術家による歴史的な解釈は、歴史的な正確性や客観性に欠けることがあります。歴史学者は、芸術作品を慎重に検証し、その解釈が歴史的な正確性や客観性を持つかどうかを見極める必要があります。

さらにここで、「それらの事例を考察してみてください」と打つと、次のように出てきました。

上記の事例を考察すると、芸術家による歴史的な解釈には、いくつかの問題点が存在することがわかります。

まず、芸術家が歴史的な出来事を自由に解釈することによって、歴史的な事実とは異なるストーリー展開や人物描写が生まれることがあります。たとえば、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」では、史実ではないシーザーの妻の夢を描くシーンがあります。このようなフィクション要素が含まれることによって、歴史的な正確性が損なわれることがあります。

また、芸術家は、自分自身の思想や価値観を作品に反映させることがあります。そのため、芸術作品には、芸術家の主観的な解釈が含まれることがあります。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」では、キリスト教の聖書に基づいているものの、芸術家の解釈によって、聖人たちのポーズや表現が加えられ、作品には芸術家自身の思想が反映されているといえます。

さらに、芸術家による歴史的な解釈が歴史的な正確性や客観性を欠くことがあるため、歴史学者は、芸術作品を慎重に検証し、その解釈が歴史的な正確性や客観性を持つかどうかを見極める必要があります。一方で、芸術作品は、その解釈が歴史的な正確性を持たなくても、時代背景や社会状況を表現していることがあります。そのため、芸術作品は、歴史学者にとっても貴重な資料となることがあります。

以上のように、芸術家による歴史的な解釈は、歴史学者にとっては慎重に扱わなければならない問題点があるものの、芸術作品自体が時代背景や社会状況を表現していることがあり、歴史的な資料としても価値があることがわかります。

長くなるので、この辺で終えておきますが、ここまでで字数は2,500字弱です。一応、問われていることを考察しているようですが、エッセイは説明的で、立論は弱いかなと思いますが、さて、みなさんはどう思われますか?

IBOは、「AIソフトの使用を禁止するつもりはないとの見解を表明している一方、その使用は、IBの学問的誠実性の方針に沿い、このようなツールで作成された作品を、たとえ一部であっても、自分の作品とは見なさないということを知るべきだ」と述べています。より詳細は、IBOのホームページをご覧ください。

IBには学問的誠実性をチェックする部門がありますし、ここ一年採点について、それぞれの科目でこれらのAIソフトの使用について議論されてきました。使用は禁止されていませんが、学問的誠実性に触れていると判断されないように、生徒個々人のAIソフト使用については学校で方針を持っていたほうがいいかもしれません。そのことが最終的に生徒個人を守ることにつながるのではないでしょうか。