街角は様々な問いで溢れています。本屋さんに並ぶ書籍、アーケード内で聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知」が目覚める合図です。
苦手を集めて
私には苦手なことが3つあります。1つ目は人と別れること、2つ目は寒いこと、3つ目は祭です。今日も「また、この人はへんてこりんなことを言い出したよ」くらいに思ってもらっていいですが、皆さんに考えてほしいのは、私たちが苦手としているものは私たちによっていつかのタイミングで選択されたのかということです。
私はかれこれ教員になって24年になりますが、入学式があまり得意ではありません。3年後の卒業式に生徒と別れることを考えると気持ちが重くなります。つまり、別れが苦手なんです。それをわざわざ、今日出会いました、今日別れましたって儀式を行わなくても……って思う私にとっては、気がつけば出会っていて、気がつけば別れていたなぁというふうにいかないものかと思うんですが、共感してくれる人はいるでしょうか?
私は北国で生まれ育ったにもかかわらず、寒いことがことさら苦手です。どんなに南国に行っても、もしかしたらクーラーが効きすぎて寒かったり、思っていたよりも暑くないことによって寒く感じられてしまったりする可能性があるので、必ず寒さ対策をして行きます。寒いことに一切の前向きな気持ちをもっていかれるので、年がら年中、寒さには敏感になっています。これは共感してくれる人がいるでしょう?
お祭、怖い
私は怖くて、祭にいけません。祭自体は好きなんですよ。でも、祭に参加している人の表情を見るのが怖くてしょうがないんです。だからお祭を見に行く人ってすごく勇気あるなと思っています。せいぜい見られて、佐藤健寿が奇祭を撮った写真展くらいです。
私はもともと保守中の保守です。変化を嫌います。いつも同じがいい。私の精神状態も一定の幅の中に収まっていてほしいと思っているので、喜怒哀楽がその想定できる範囲に中であってほしいと願っています。
しかし、祭に参加している人は、その範囲の外の表情をすることがあります。人間のする表情かって思うような形相の人、祭で見ませんか?それが、怖いんです。もしも、その人が自分の知っている人だったら、その後、私はよそよそしくなってしまうでしょう。だって、一回この世のものではないと感じるような表情を見て怖いって思っちゃったんですから。
苦手を選んだことがあっただろうか?
だから、祭には行かないようにしていますし、もしも祭の場に遭遇したらできるだけ人の顔を見ないように通り過ぎます。しかも、祭の終わりって何だか悲しげじゃないですか。だから、毎日祭っぽい雰囲気がある東南アジアの国々が好きなのかもしれません。毎日ギラギラしていて、屋台がたって、にぎやかで。それが非日常ではないところが安心するのかもしれません。
皆さんから共感を得られない私の苦手ですが、皆さんにもあると思うんです。苦手になったきっかけが何かあって、理解できる理由も説明できるかもしれません。でも、その苦手なものを、苦手なろうと選択したことはないんじゃないかなって。
よくよく考えてみると、私たちは多くのことを選択していないんじゃないでしょうか。苦手なことも、好きなことも、嫌いなことも……。もしかして、この時代に、日本じゃない場所に生まれ育ったら、苦手になっていないことがあるかもしれません。もう少し早くに、もう少し遅くに生まれていたら、苦手って思わなかったかもしれません。遺伝的な要因もあるかもしれませんが、環境的・社会的要因も管見しているのではないでしょうか。
最後に
今、心底後悔しています。ToKtober Festなんて始めたことを。あんなに祭が苦手とか言っておきながら、これみよがしに自分から祭を作っちゃったことを。終わるタイミングも決めずに始めたので、どう終わっていいのかもわからなくなり、気がつけば11月。もう、Novemberなのです。
やっぱり、私は気が向くままに、その時その時思いついたことをぬるっと書いていくほうが性に合っているみたいです。今回は柄にもないことをしてしまいました。その終わり方が、これっていう……誠にあいすみません。
というわけで、ToKtober Fest 2020はこれにて閉幕することにします。これからもあれこれ考えたことは書いていこうと思いますが、「街角TOK」シリーズにてお目にかかりましょう。