街角は様々な問いで溢れています。本屋さんに並ぶ書籍、アーケード内で聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知」が目覚める合図です。
みなさん、こんにちは。熊谷優一です。先日、とある学校の入学式の祝辞で易経と論語の一節が紹介されるのを聞きました。
「窮すればすなわち変ず、変ずればすなわち通ず(易経)」
「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆ふし(論語)」
まさに今、世界で起こっていることに対して、人類が、コミュニティーがどのような態度で対応するのかについて示唆しているような気がしました。
コロナ禍にあって、私たちはパラダイムシフトの真っ只中にいます。とっても困っています。変化が訪れるときです。これまで優先順位が高かったモノやコトが取捨選択される可能性は十分にあります。
例えば、学校です。これまでの学校は教える人も学ぶ人も同じ空間にいることが基本的な決まりごとでした。その中で実現してきたことは人類にとって大きな意味を持つことは確かです。自分以外の他者との関係の中で私たちは多くを学びます。声音、表情など肉体で表現される様々なことを通して、言語以外のコミュニケーション手段があることや、ある集団において役割は分担され、自分はその集団に何らかの役割を担って貢献すること、人間関係を構築したり、修復したりする中で自分自身が何者であるかを振り返ったり、学校という空間で同じ時間を過ごして経験的に得た様々なことは、知識を得るだけでなく、非認知スキルを高めるのにも重要でした。
しかし、人が集まることが命の危険を及ぼすような状況では、そういった学校の役割は衰退する可能性があります。そのことを私自身は残念に思う反面、一方で、もしかしたら学習者の可能性をより広げることになりはしないだろうかという希望も持っています。
以前私は、オンラインで学べるようになったら、どこにいても学ぶことができるから、住んでいる地域によって学習格差が生まれない新たな仕組みが構築できるのではないかと書きました。すべての科目ではないにしても、ある一定の割合で所属する学校以外の先生が教える授業をオンラインで受けることができたり、学年や、国の枠を超えて、世界中の先生の授業を受けることができたりしたら、もっと面白いと思うのです。
海外の大学では無料のオンライン講座って多いですもんね。世界中の学習者がその学びを選択できるようなプラットフォームがあって、小学校からそれをやれるようにしたら、どこに住んでいようとがよりよく学ぶことができるんじゃないかなと思うんです。
そんなことを昨年、オンラインで知の理論を教えたことを通して考察しました。しかし、でもそれは全員にとって一番いい方法というわけではないことを私たちは腹の中に持っておかなければなりません。ここでも書きましたが、様々な学習の選択肢の1つとしてオンラインで学ぶことがあってもいいということです。そして選択するなら、そう学ぶために十分な準備を提供しましょうということです。
でも、要はいかに主体的に学ぶかではないでしょうか。自分自身で学び、考えようとする態度。「学びて思はざれば則ち罔し(くらし)。思ひて学ばざれば則ち殆し(あやふし)」という論語の一節は、学んだことを自分自身でよく考えること、自分自身でが考えたことは世の中ではどういう風に説明されているのか学ぶこと、どちらも重要であって、どちらか一方では学問は十分ではないと私は解釈しました。
漢字学者の故白川静ファンの私としては、「学」と「思」にフォーカスして深堀りしたいところではありますが、長くなってしまうので、ここではやめます。気になる方は「字統」「字訓」「字通」という漢字字典で調べてみてください(特に思・想・念あたりを調べるとオモウということの文脈が見えます)。
さて、学ぶということについては、「直観を磨くもの(新潮文庫)」という対談集で、小林秀雄(文芸評論家)と三木清(哲学者)がとてもわかりやすく説明しています。三木は読書などを通して知識をインプットすることこそが学習だと考えている日本人の学習観を批判しています。この対談は昭和16年8月に「文藝」に掲載されたものですが、当時から日本の学校教育や学習の課題は変わっていないのかもしれません。
近代科学は本を読むことが学問であるであるという既成概念を転換させました。三木の話をかなり単純化しますが、まずは仮説を実験して確かめる。理論はそれから。そうやって知識を生成する。それが近代科学が学ぶことの概念に影響したというのです。
昨今の学習では何かを制作する過程に知識は再構成されるという考え方が色濃く反映されていますね。「Learning by doing」や「Learning by making」で試行錯誤しながらアップグレードしていく。そこに必要なのは、知識の伝達に終止する指導ではなく、知識の再構成をファシリテートしていく、新たな役割を持った生身の先生なのかなと思い巡らせました。
私は論語や易経などといった古典を十分に読んできませんでした。よく批判にのぼる伝統的な学校教育で教えていて先生たちの多くはアウトプットする機会は少なかったかもしれませんが、たくさん本を読んで、思索していたと思います。そして、大概の昭和の大人たちは東洋西洋を問わず、古典を読んでいました。
というわけで、衝動に駆られた単純な私は、何か古典ないかなと「枕草子」を開いたのですが、「春はあけぼの」の段ってすごく良く構成されていますよね。主張と根拠が明確!でも、待てよ。描かれていない時間帯がある!なんでだ!?
みなさん、もう一度読んでみてください。「春はあけぼの」の段には描かれていない時間帯があるんです。なんでだと思います?いろいろ調べてみて、私、清少納言がとても身近に感じられました。で、プレIBセッションでよく使う津田左右吉の「歴史とは何か」に書かれてあることを思い出して、「ウェイ!」ってテンション上がりました。