街角TOK:闘う君の唄を闘わない奴らが笑うだろう

街角は様々な問いで溢れています。本屋に並ぶ書籍、アーケードで聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知の目覚め」の合図です。

みなさん、こんにちは。熊谷優一です。今回は国際バカロレア・ディプロマプログラムの文学(日本語)で扱える作家の一人としてリストにあがっている、中島みゆきさんの歌を取り上げようと思います。

中島みゆきに「ファイト!」って歌われるほど辛くない

いいこともあれば、よくないこともあるのが日々の暮らし。よくないことが重なると、まるで出口がないような惨憺たる気持ちになります。そんなときに寄り添ってくれるのが、「ファイト!」という歌です。

中卒だから仕事をもらえないと手紙を書いたあたし。ガキのくせにと大人に殴られた少年。駅の階段で子供を突き飛ばした女を見ても何もできずにその場を逃げ去った女性。

その他にも、この歌には傷ついたたくさんの人達が描かれています。そんな彼らに向けて、か細く、やがて朗々と、「ファイト!」とエールが送られます。

そんな彼らと比べたら、私は「中島みゆきに「ファイト!」って歌われるほど辛くない」と唇を噛み締め、「よし、頑張ろう」と思えるのです。

あたしと私

でも、ですよ。ちょっと客観的にこの歌を聞いてみると、この歌の視点が複雑に交差していることがわかります。歌詞をよーく読んでみてください。

もしかして英語で歌われていたら、日本語で聞くのと同じように、歌の中に登場する異なる人物の輪郭が聞いただけで理解できるでしょうか。

中卒だから仕事をもらえないと手紙を書いたあたしとその手紙をもらった人。ガキのくせにと大人に殴られた少年を見ていた人。駅の階段で子供を突き飛ばした女を見ても何もできずにその場を逃げ去った女性が「私の敵は私です」と伝えられている人。男に生まれていれば、男の思うままにならなかったと言うあたし、とその話を聞く人。

歌の中には、一人称が明記されてない人もいます。そして、私が一人、あたしが二人登場します。あたしは二人登場しますが、それぞれ別人ではないかと思われます。

英語では一人称単数は「I」で表されます。韓国語の場合は、相手が自分より目上の人には「저」を、近しい人や友人、年下には「나」を用います。どちらの言語も男女の区別はありません。

それに対して、日本語の一人称は男女、自分と相手の年齢、所属するコミュニティなどによって、非常に多様な形で表現されます。そのことが「ファイト!」の中で歌われている人の異なりを明確に表現し、理解できることを可能にしているのではないでしょうか。

男歌と女歌

中島みゆきさんの「銀の龍の背に乗って」では、「命の砂漠へ雨雲の渦を届ける」のは「僕」でした。「狼になりたい」では、夜明け間際の吉野家で店員相手に管を巻くのは「俺」です。「わかれうた」では、「わかれうた唄いの影がある」のは「私」です。

実にたくさんの一人称で歌われていて、歌い手と歌の主人公は別人であることがわかります。演歌でも、男性歌手が女性が主人公の歌を歌っても、男性歌手と主人公は別人だと分かりますし、徳永英明さんのカバーアルバムでも女性が主人公の歌が歌われますが、その主人公を徳永英明さん自身とは、私たちは考えません。

それを可能にしているのが、日本語の一人称、二人称、三人称の多様さではないかなと思ったんです。

最後に

昔、ダイアナ・ロス&シュープリームスが歌った「恋はあせらず」という曲を、フィル・コリンズがカバーしたとき、なんかすごく違和感があったんですよね。ちょっと聞いてみてください。

ダイアナ・ロス&シュープリームスが歌った「恋はあせらず」

フィル・コリンズのカバー

ダイアナ・ロスが歌う「I」はすんなりと変換できたんですが、フィル・コリンズが歌うと「I」って日本語にはなんか訳しづらくないですか?フィル・コリンズの歌っている姿をみたからというわけではなく(その可能性も否定しづらいですが……)、歌詞を聞いていてどうも……。

皆さんだったら、フィル・コリンズバージョンの「恋はあせらず」の「I」を、「俺」にします?「僕」にします?「私」にします?

これって日本語母語話者ゆえの苦悩でしょうか?