皆さん、こんにちは。熊谷優一です。
今月は「ToKtober Fest」と称して、これまで当ブログ(チノメザメ)で取り上げてきた「知の理論(国際バカロレア・ディプロマプログラムの世界必修科目)」の視点をもう一度振り返ります。「ToKtober Fest」はドイツ語で10月を表す「Oktober」に由来し、語頭に「T」をつけて「TOK(Theory of Knowledge:知の理論)」のお祭りっぽくしようと思って始めました。
今年は4月にコンサートに行って以来、歌詞カードを見ながら、ちゃんと聞くようになった中島みゆきをテーマにしました。中島みゆきはIBプログラムの文学の作家リストに入っている唯一の日本人シンガーソングライターです。文学なので対象は彼女が歌で書いている言葉と世界です。 今日は彼女の言葉に注目してみようと思います。
探求と知識
なんだか、探求って言葉が一人歩きしているように思うんです。教育業界では、これまでも「ゆとり教育」だ、「個性の尊重」だ、「アクティブラーニング」だ、なんだかんだと、これまでも定期的に色んなキーワードがバズってきました。最近では、「探求」ですよね。
別に取り立てて探求の時間を持たなくても、探求のネタを持っていたら、勝手に探求している子どもたちはたくさんいましたし、今もたくさんいます。逆に探求のネタを持っていない子供たちは時間割の中に探求の時間が設けられて苦しんでいる状況があります。また、探求を指導できるかどうかは、その先生の探求スキルにかなり左右されるため、先生たちも案外苦しんでいるのではないでしょうか。
全員の子どもたちと先生たちが対象となると、探求の時間はより単純化されないとやりくりできないため、方法論に依存してしまうのは致し方ないのかもしれません。それは、プレゼンとかディスカッションという様式がアクティブラーニングそのものと捉えられてしまっている風潮と似ているように思います。伝えたいことがなければプレゼンする意味を失いしますし、何のために議論をするのかを明確にしなければ、その議論そのものに意味を感じなりますし、その議論を展開するために必要な知識もスキルも特定できないまま議論が始まってしまいかねません。
ネットで検索すればすぐに情報が出てくるから、知識を獲得することは意味がないみたいな乱暴な主張も最近では結構耳にしますが、果たして本当に私たちは知識を獲得せずに、学びを豊かにすることって可能なのでしょうか。
ゼゲン?
中島みゆきは『命の別名』という歌は次のようなフレーズで始まります。
知らない言葉を覚えるたびに僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある
どんなに長く生きていても、知らない言葉はたくさんあります。きちんと理解しきれていない言葉もたくさんあります。間違って理解している言葉もきっとあることでしょう。
私が初めて中島みゆきの歌を聞いたのは、中学生の頃だったと思います。ラジオから流れてきた『やまねこ』という歌でした(ちなみに、私はこのシングルのB面『シーサイドコーポラス』という歌が中島みゆきの歌の中で一番好きです)。
東北で生まれ育った私は食い扶持を減らすために小さな女子が「ゼゲン」に売られていった話は耳にしたことがあったので、幼いながらその単語は音で知っていました。以前こちらのエントリーでもそのことを書きましたね。
この歌に「女に生まれて喜んでくれたのは菓子屋とドレス屋とゼゲンと女たらし」というフレーズがあって、いてもたってもいられず歌詞を調べて、「女衒」という漢字表記されることを知りました。こんな風に中島みゆきの歌をきいて知った言葉はたくさんあります。
そんな言葉本当にあるの?
そういうことがあるから、彼女の歌詞は辞書で調べながら出ないと解読できないことがあるんですよね。例えば、『EAST ASIA』という歌に出てくる「柳絮(りゅうじょ)」は綿毛状の柳の種のことだそうで、『終わり初物』というのは旬の時期が過ぎた頃に出回る野菜や果物を初物のように珍重していうのだそうです。
そんな風に聞きなれない言葉を歌にするのってどれだけの言葉を知っているのだろうと驚愕しますし、またどんどん新しい言葉を創っていくことにもすごいという陳腐な言葉しか私は出てきません。
最後に
知らない言葉を知らないまんまにしているよりも、こうして歌を聞いたり、誰かの話を聞いたり、本を読んだりして、新しく言葉を知るというのはいいもんだなと思います。小さい頃は、それで何だか大人になったような気がしていました。
やばい!中島みゆきの言う通りだ。「知らない言葉を覚えるたびに僕らは大人に近くなる」のを皆さんも実感されたことはありませんか?
とすると、ですよ。「けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある」と言うのもその通りなのでしょうね。私が、皆さんが最後まで覚えられない言葉って何でしょうね。「知らない」ではなく「覚えられない」言葉っていうのが意味深です。
今井むつみがベストセラーになった『言語の本質』という本の中で、「言葉の意味を本当に理解するためには、丸ごとの対象について身体的な経験を持たなければない」と書いていましたが、言葉を覚えるためには何らかの経験に基づかなければいけないのかなと思うと、私たちが覚えることができる言葉、または理解することができる言葉は一生の間にどれだけの経験をしているのかに要因するのだろうかとぼんやり考えています。
そう仮定すると、少なくても多くの体験を子どもたちにさせてあげようという考えは歓迎されますし、体験に基づく学習は効果はなくはないと信じることができますね。