Heroes:橋本裕之先生

みなさん、こんにちは。熊谷優一です。

このHeroesというシリーズでは様々なフィールで活躍するオトナを紹介しています。これまで、ベトナムでレストランを経営する白井尋さん、京象嵌の若手職人の中嶋龍司さん、漢字文学者の故・白川静さん、日本文学者のドナルド・キーンさん、筑波大学大学院教育研究科客員教授のキャロル・犬飼・ディクソン先生、中国茶研究家の王静先生、そして94歳になった今も活躍している女優アンジェラ・ランズベリーさん、東京03の飯塚悟志さんを紹介してきました。

今回は民俗学者・橋本裕之先生との出会いについて書きたいと思います。それは必然とも思える偶然の出会いでした。

探り合って 探せなかった
求めあって 虚しかった

思いかげず 巡り合う
思いがけず

日常を離れた旅の中で自分では思いもしなかったステキな人や、言葉や、心揺さぶられる経験と出会うことがあります。

大阪のマイ神社にて出会った

私が生まれ育たところのすぐ近くに神社があり、年中行事も多く、地域住民の交流の場でした。だから神社は子供の頃から私にとってとても身近な存在です。以前、埼玉に住んでいたときは川越の熊野神社に月一でお詣りしていました。そこでの不思議な出来事については以下のエントリーで書きましたが、今回は近所の神社で思いがけずご縁をいただいたのでした。

あれは3年前の大晦日のことでした。熊谷が川越にあるマイ神社で呼び止められたことが全ての始まりでした。

先日、ご祈祷をお願いした神社で権禰宜(ごんねぎ)を務められていたのが橋本裕之先生でした。儀式が終わった後に二言三言、言葉を交わしたのですが、私に関西の訛りがないことから、私の出身地の話になり、宮城県気仙沼市だというところから、話は盛り上がったのであります。

東日本大震災とキャリアの舵

聞けば、橋本先生はもともと民俗学を研究する大学教授で、東日本大震災当時は盛岡大学で教えられていたそうなのです。気仙沼にもボランティアで訪れたことがあり、そこがズバリ私が生まれ育った鹿折(ししおり)でした。

震災後、民俗芸能の研究のフィールドとしていた岩手県沿岸のとある集落の神楽を手伝ってほしいと依頼されたことから、先生のキャリアは大きな展開を見せます。神楽が行われるのは神社です。先生はそこでコミュニティにおいて神社が果たす役割について思いを馳せます。

そして、先生は神職を目指して学び直し、現在、坐摩神社で権禰宜をされていらっしゃいます。東日本大震災をきっかけに、私自身もそのキャリアの舵を大きく切ったので、私は自分ごとのように先生の話を聞きました。

人がおるんよね

吉田拓郎の『唇をかみしめて』という歌に次のような一説があります。

「人がおるんよね そこに人がおるんよね」

私は『知の理論(Theory of Knowledge: TOK)』を教えながら、様々な事例を考察する際も、その時代に、その場所に生きている人がいることを意識しながら、ただ自分の立ち位置から批判に終始しないよう心がけています。この一説はそんな戒めになっています。

先生はアメリカの大学でも教えていたこともあったり、数多くの論文や著作で民俗芸能について研究成果を発表されてきましたが、先生の眼差しにはローカルであれ、グローバルであれ、そこの暮らす人々を見ているように思えたのです。

先生の著作『震災と芸能: 地域再生の原動力』では、先生が民俗芸能を通して、東日本大震災の復興に奔走した様子が描かれています。先生が見ていたのは、過去の、現在の、未来の人の暮らしの拠り所そのものではなかったかと思いました。

最後に

橋本先生は私が生まれ育った鹿折の気仙沼湾側の集落の波板地区の虎舞など、東北の伝統芸能を大阪万博に呼ぶことにも関わっていたり、話を伺えば伺うほど、私はロマンティックが止まらなくなりました。

『先生、うちの学校で生徒たちにお話ししていただいてもいいですか?』

私は無意識に、先生にお願いしていました。先生は英語でお話しすることもできるからいつでもどうぞとおっしゃいました。

先生とは、私がよく授業で取り上げた柳田國男の作品(知の理論では言語のところでも、人間科学のところでも事例として取り上げやすいですし、小林秀雄と絡めてプレIBのところでもいいですね)について少しだけお話ししたのですが、流石にご祈祷後にするには時間があまりにも足りなくて、次は先生とお話しさせてくださいと懇願して神社を後にしました。

橋本先生、とても幸せなひと時をありがとうございました。お忙しいとは思いますが、近々、またお話しできることをここより楽しみにしております。