街角TOK:大きなかぶ

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街角は様々な問いで溢れています。思い当たることはありませんか?本屋さんに並ぶ書籍、アーケード内で聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことに、ふと気がついてしまう時が。

この「街角TOK」のシリーズでは、そんな些細な疑問を取り上げていいます。

みなさん、こんにちは。熊谷優一です。今年も終わりですね。昨年末は「ヒトとヒト、ヒトとモノ、モノとモノを繋いでいくこと。それが私の今生と来生をも繋ぐのかもしれない」なんてことを書いていました。

あれは3年前の大晦日のことでした。熊谷が川越にあるマイ神社で呼び止められたことが全ての始まりでした。

今回は私の今に繋がる過去の出来事を取り上げたいと思います。

音読の時間

私のばあさんは夕ご飯のお支度の際には、決まって私に本を音読させました。幼稚園生の頃から、小学校高学年になるまで毎日毎日ありとあらゆる本を読ませられたことは以前も書きましたが、今でも読んだ本のことは大概覚えています。幼少期の私の知識の大部分と情緒はあの音読の時間に形成されたと言っても過言ではないしょう。

かこさとしの絵本を読みながら、私はワクワクを持って世の中を見る目を持ちました。特に『からすのパンやさん』にはテンションが上りましたね。私がパン好きになったきっかけの本です。そして思い余って、気仙沼のとあるパン屋さんに一日パン屋で働かせてほしいというか、パン屋で働くところを厨房で見せてほしいとお願いすることになります。

食の秋。熊谷がどうも食べ物のおいしさにピンときていないようなんです。

その時の顛末が「おいしさの限界点」とか「おいしさの絶対値」という発想につながり、今なお授業で取り上げたりしています。「こういう一見どうでもよさそうなことに中に考える楽しさは見いだされるのです」とかってもっともらしいことを言いますが……。

さて、読む本の中には教科書も含まれていまして、それが時にひと悶着起こすことになります。

違和感

小学校1年生のときだったと思うのですが……国語の教科書に『大きなかぶ』というお話が載っていました。ありえないくらい大きくなったカブをじいさん、ばあさん、孫、犬、猫、ねずみが無理やり引っこ抜くっていうトルストイの話です。

読めば読むほど、まぁ違和感しかなくないですか?「なんだこの気持ち悪い話は!」と当時の私は茶色い料理を作っているばあさんに食ってかかります。

この近所付き合いをしない老夫婦はどれだけ無計画で怠け者なんだ!うちの庭に生えているカブの大きさはどんなに大きくなってもせいぜい大人の拳ほど。一瞬でバカみたいに大きくなるわけもあるまい。農作業を怠っているから、ここまで大きくなるのに気が付かないんだ。

うーん、気になる。違和感消えねー!

それをばあさんに訴えるも、気もそぞろに茶色い料理の味がしっくりこないようで、鍋をしきりにかましていました。

木に生ってしまいそう

翌日になっても、違和感は消えませんでした。そこで国語の授業にそれをぶつけてみました。

大きくなりすぎた野菜は大概美味しくないのに、この老夫婦がカブを抜かなけれないならない大義名分は何か。抜いたところで人付き合いがないこの老夫婦はカブを腐らせるに違いない。だったら、抜かずにそのまま腐らせるという選択肢もあったはずなのに、なぜわざわざ労力をかけて抜こうとするのか。そもそもどんどん力が弱くなっていくメンツで本当に抜けるのか。そして彼らはなぜ自分はカブを抜いているのか納得してその列に参加しているのか。

「優一、うるせー!」

そこまで話したところ、先生から返ってきたのはその一言でした。私は我に返り、またやってしまったとうつむきました。

気になって気になって、その辺の木に生ってしまいそうなときは本当にどうしたらいいんだろう。どうも、先生が板書したことをノートに書き写す過程で、疑問に思ってしまったら手が止まるタイプの私は途方に暮れました。

最後に

先日、奈良教育大学で開催されたシンポジウムでお話しする機会をいただきました。そこで吉村教授から「現在のスタイルで教育実践をするようになったきっかけは何か?」という質問を受けました。

まさに、この時の感覚が今の私の学習観を形成しています。そしてこれは国際バカロレアという教育プログラムと出会ったとき、「あぁ、自分なりの答えを模索するような学び方もあるんだ」と思ってとっても嬉しかったのを憶えています。

先生にも先生の事情があるのはよくわかります。教科書がある以上、それを終わらせなければいけないので、いちいち生徒の質問を授業で取り上げていたら時間が無くなるという危惧もわかります。でも、別にその場で議論しなくてもいいんです。「昼休みに先生のところでちょっと話そう」でいい。「そのことについて考えたことをノードか何かに書いて、明日見せてくれる?」でいい。

要は取り上げてくれるのか、そうでないのかで学習者の今後の行動が全然違うってことです。そして、先生たちが子供たちの疑問に向き合えるように、余裕ができたらいいなってKYTN(空気を読むつもりがない)の私は思います。

現在、私は授業の中でプレTOKのプレゼンテーションをしています。生徒たちが発表しながら、発表を聞きながら、何かが目覚める瞬間を目撃できるのは教師としてこのうえない光栄です。たかが5分足らずの発表が上手くいかなかったと悔しがる生徒たち。なんで悔しいかって言ったら、言いたいことをうまく伝えきれなかったから。実は自分には言いたいことはたくさんあるって、それに気づけただけでも大きな学びだと私は思います。

すべての学習者にとって疑問の種が芽吹き、人生のいずれかの瞬間に実りの秋を迎えることを願ってやみません。
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