ToKtober Fest 2020:ロマンティックが止まらない

街角は様々な問いで溢れています。本屋さんに並ぶ書籍、アーケード内で聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる無秩序な人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知」の目覚めの合図です。

希望の鐘が鳴りやまない

いちゃもんをつける人だと思っていましたと同僚に言われた熊谷が凹んでいるんです。

前回、「問いといちゃもん」について自虐的に書きました。すると、私の故郷の友人からは本当に根暗スパイラルに陥っているのではと心配して電話をもらったり、「実は私もそうでした」と違和感をなんとかやり過ごして大人になったみなさんからメッセージいただいたり、「違和感や生きづらさを感じている人たちに、この記事が届くと良いなぁ」と励ましてもらったり、思わぬ反響にとても驚いています。

海外からもメッセージをいただきました。お子さんがIBDPに取り組んでいるそうで、このブログで取り上げるようなことが家庭でも話題になるそうです。話を聞いてみると、2017年に私がホーチミン日本人学校を訪問した時に、お母さんがその場にいらしたとか。人の縁って本当に不思議なものですね。どこでどうつながるか、まるでわかりません。

メッセージのやり取りをしているうちに、お子さんが作った動画を紹介していただきました。彼が学び続ける意欲を持ち続けたことに、そしてこの動画を公開してくれたことに心から感謝しています。彼が作った動画で希望を持てる人はたくさんいるのではないでしょうか。彼の数学への疑問はまさに私も感じたことだったので、同じように感じる人がいることを知ってとても嬉しかったです。ぜひ、ご覧ください。

ロマンティックが止まらない

やめろと言われても、やめられない。そんな状態を夢中と呼びます。気になって気になって仕方がなくなって、知りたくて知りたくて仕方がなくなって、ロマンティックが止まらない。そんなことってみなさんにもありませんでしたか?

私にとっては、なんといっても、昔、NHKで放送されていた「ジェシカおばさんの事件簿(Murder, She Wrote)」というアメリカのドラマの主人公を演じたアンジェラ・ランズベリーという女優さんです。私は高校生の頃、彼女を一目見て、「この人と話をしてみたい」という思いだけで、英語をいきなり勉強し始めました。

英語が、じゃないんです。彼女が話していた言葉がたまたま英語だったってだけでした。彼女と彼女が出演した作品を知るためには英語という言語を理解する必要があったのです。でも、「13月」シリーズでおなじみの私のばあさんより年上の彼女に「なぜそこまでハマるのか理解ができない」と同級生からいぶかれても、もう好きになってしまったら、理由なんてないんですよね。

愛が止まらない

アンジェラ・ランズベリーは1925年10月16日に生まれ、先日95歳になりました。私はかれこれ彼女を30年にわたって追っています。当時はインターネットもありませんでしたから、そこまでメジャーな経歴を持っていない彼女の情報はあんまりありませんでした。

最初は気仙沼市立図書館で、そして宮城県立図書館で、洋書がおいてあった仙台の書店で彼女について書かれているものはないかと調べに調べました。気仙沼高校でALTをしていた先生に頼みこみ、アメリカに帰国した際に最新版の「ジェシカおばさんの事件簿」をビデオテープに録画してもらったり、「こんな本みつけたよ」って買ってきてもらったりしました。

そのうちに彼女がブロードウエイミュージカルに出演していたことを知ります。たまたまラジオでミュージカル特集をしていたり、テレビで昔のミュージカルの特集をしていたりして、彼女が歌った歌や出演した作品の一部を見ることができました。高校3年生の文化祭で作った寸劇は、アンジェラさんが出演した「Sweeney Todd」という作品はきっとこんな感じだったに違いないという勝手に想像して作りました。想像力さえ駆使すれば、私はアンジェラさんをどんな物語にでも登場させることができました。

最後に

アンジェラさんを好きにならなければ、英語の勉強もすることはなかったでしょうし(そもそも高校を中退すると思われていましたしね)、先生になることも、ましてやこうしてIBに携わるようなこともなかったんじゃないかなと思います。アンジェラさんへの興味が私の学ぶ意味でした。これらを読んでいただければ、呆れるほどオタク気質な私の学びの素をわかっていただけると思います。

そこから言語学に発展し、カチュールという社会言語学者の「World Englishes」という考えに触れ、言語における正しさはどういう過程を経て決定されるのかが気になり始めて、彼に話を聞きに行ったり、シェイクスピアと近松門左衛門を読み比べているうちに、悲劇は人の死をどのように描くのかもっと知りたくなって、悲劇ばっかり読んでみたり、節操なく興味がむくまま、知らず知らず私は知識を広げていたのかもしれません。

今は、「ゼロ」ってなんだろうっていうことばかり考えています。少し前は烏龍茶のことばかり考えていました。でも、今もおんなじです。気になったら手当たりしだいに情報を入手しようというアプローチは。入手しているうちに私自身の◯◯像が形成されます。そしてそのイメージが他の人からどう見えるのか知りたくなります。

学ぶってそういうことなのかなって思います。そして関心を持ったことたちを俯瞰してみると、自分っていう人間がどういう人間なのかを見つめることができます。あなたのロマンティックがあなたを形成しているのです。みんなのロマンティックを集めたら、人間って何だろうという問いに答えることができるかもしれませんね。