街は様々な問いに溢れています。本屋に並ぶ書籍、アーケードで聞こえてくる音楽、やがて暗黙の秩序が生じる混沌とした人の流れ、商店街で交わされる一見無意味な会話。普段はなんとも思わないことがふと気になりだしたら、それが私たちの「知の目覚め」の合図です。
みなさん、こんにちは。熊谷優一です。まだまだ暑い日が続いていますが、もうまもなく10月。10月といえば、恒例の「ToKtober Fest」の秋(とき)です。
2020年にそれまで当ブログ(チノメザメ)で取り上げてきた知の理論(国際バカロレア・ディプロマプログラムの世界必修科目)の視点をもう一度振り返る「ToKtober Fest 」という企画をはじめました。「ToKtober Fest」はドイツ語で10月を表す「Oktober」に由来し、語頭に「T」をつけて「TOK(Theory of Knowledge:知の理論)」のお祭りっぽくしようと思って始めました。ほら、よく10月に「Oktober Fest」が開催されているではないですか。
というわけで、今年はちょっとフライング気味ではありますが、前回のリリースからまた随分空いてしまったということもあり、今日ここに「ToKtober Fest」を開催を宣言します!
キライ、キライ、キライ
ああ、失敗した。中島みゆきのことなんか、書かなければよかった。歌詞を見ながら聞こうなんて、思わなければよかった。私は今、彼女の歌を聴きすぎて、問いの沼にハマっています。この人の歌と、先日亡くなった松岡正剛の本は考えさせれることが多すぎで日常生活に支障をきたすほど煩うから嫌い。もう本当にキライ、キライ、キライ。
ことの発端は中島みゆきのコンサートでした。結局、前回のエントリーで紹介した『心音』のCDを買ってしまったのです。ああ、買ってしまったことです。そして、歌詞を見ながら、私はじっくりと、ああ、それはじっくりとそのCDを聴き、この歌に出会ってしまったのです。
シングル『心音』には『有謬(うびゅう)の者ども』という歌が収録されていました。私はこの歌を聴き、強烈なインパクトを受け、もうこの歌のことで頭の中がぐるぐる回っています。
誤謬と有謬
「誤謬」は国際バカロレア・ディプロマプログラムにおける全世界必修科目「知の理論(Theory of Knowledge: TOK)」でも扱うので、DP生の皆さんは聞き慣れていると思いますが、「有謬(うびゅう)」ですよ、皆さん。中島みゆきは「誤謬」ではなく、「有謬」と歌っています。いくつか調べてみたのですが、辞書には載っていなかったので、中島みゆきによる造語だと思われます。
「誤謬」とは一般的には間違えることを言います。TOKの授業では、論理の飛躍、過度の一般化などといった、一見もっともらしく聞こえるけれども、冷静に考えた時にその主張の根拠や例示の仕方ってどうなの?と一旦冷静になって考察しますよね。
この歌で中島みゆきは「間違うのが人間」と歌っています。つまり、「人間=有謬」の存在。間違えることは人のデフォルト、持って生まれた性質なんです。この歌もどうぞ歌詞を見ながら聞いてみてください。こんな主張が成り立ちますね。
間違うのが人間である。私たちは人間である。だから私たちは間違うのである。
見事な三段論法!しかしこれは、ある意味、あの名曲「ファイト!」にも通じる応援歌のように聞こえたのです。だって、人って間違うんだからさぁって。がなって歌っていますが、実はすごく優しい歌のように思えてきました。
有謬と無謬
私が教育者として憂慮していることの一つに、異なるメッセージを子ども達に送っている実際があります。「間違えてもいいからやってごらん」って私たちは子ども達に言い、試行や挑戦を促します。うまくいかなかったことの中から学ぶことが多いのを私たちは経験的に知っているからです。
しかし、挑戦してうまくいかなかったり、正しくない結果をもたらした人に対して、世間はどのような態度を取っているでしょうか。世間がどのような態度を取っているように子ども達に映っているでしょうか。世間はそんな人たちを吊し上げたり、発言の言葉尻をとらえて責め立てているように映ってはいないでしょうか。そのことで挑戦することを、何かを試してみようということそのことを子ども達が躊躇しないといいなと私は心から願っています。
脱線してしまいました。誤謬という言葉から、中島みゆきは「謬がある状態」、有謬という言葉を生み出しました。であれば、「謬がない状態」、「無謬」という言葉があってもよくないですか?でも、間違いがない状態、どこからどう見ても完璧に正しい状態って現実には起こり得るのでしょうか。
最後に
「謬がない」状態をどうやって証明するんだろう。それを主張する道は厳しく、険しいそうだなぁ。そもそも辛そう。甘んじてみんな、間違い起こすよね、間違うことってアリよりのアリだよね、ってした方が生きづらくないように思います。
そもそも論理学的に正しいの、正しくないのって議論がまた、ね。場面によってはただ嫌われるだけですからね。私も覚えがあります……。論破したいだけの人に聞こえることがありますもん。自らへの戒めも込めて、気をつけないとと思います。
そういえば、私がTOKで教えた生徒達は終いに大人の話すことに潜む欺瞞や詭弁を見抜いて指摘したりするので、よく保護者の皆さんから「先生、あんまり教えないでください」と言われたものでした。さぁ、IBを学ぶ皆さん、間違うのがニンゲンです。私たちは有謬の者共です。黙って聞いてやり過ごす、そんな優しさも必要ですからね。そして間違った後に、どう挽回するのか。教育の役割ってそこのような気がしています。