レシピ -ひとつの記事ができるまで-

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みなさん、こんにちは。松岡航です。
私は今季、花粉症デビューを果たし、例年にない厳しい春を迎えています。

今回が私にとって、2回目のエントリー。我々がひとつの記事を完成させるまで、どのような行程を踏んでいるのか紹介しようと思います。

多様な執筆者

多くの教育関係者の方々に興味、関心をいただいている当ブログですが、生徒・保護者の方々にも国際バカロレア(IB)について読んでもらいたい。そして知ってほしいという想いで運営をしています。

その実現には、優一さんという一教育関係者からの情報だけでは不十分だと考えています。
日本各地の先生方や生徒に記事の寄稿をしてもらうことによって、より多角的な視点でIBについて情報を発信するよう心がけています。

今後は教育に興味を持っている異業種、保護者の方々の目線でも記事を書いていただこうと思っています。
現在優一さんが様々な面白い取り組みをされている方々に、エントリーを書いてもらえるようお願いしています。
依頼を受けたみなさん、お金にはならないので申し訳ありません。しかし、みなさんの想いや実践が、これからの日本の教育の励みになると信じています。ぜひ当ブログに寄稿をお願いします。

校閲は作者と読者を繋ぐ橋

優一さんが書いた内容を、毎回最初に読むのは私です。そこからはいわゆる「校閲」です。ちなみに校閲とは…

印刷物や原稿を読み,内容の誤りを正し,不足な点を補ったりすること。 「原稿を-する」 「 -を受ける」

校閲とは – Weblio辞書より-

とあります。

「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」というドラマでもあったように、こうした作業は縁の下の力持ち、表には目立ちません。しかし、執筆者と読者を繋ぐ重要な役割です。

優一さんの記事ひとつとっても、一度で理解できることはまずありません。
何度も読み返し、調べ、理解の糸口を掴むようにしています。でもわからないときは、わからないと伝えます。

私は教育に関して、ド素人です。
そんな私が感じる疑問は、みなさんが感じるそれと近いものがあると思っています。私が読んで理解できなければ、優一さんが伝えたいことは伝わらない。そう考えています。

以下のエントリーで鹿間謙伍くんが英語でレポートを書いたときに、優一さんが容赦なく赤ペンで添削することから、「赤鬼」と例えていましたね。

筑坂のIB認定に一役かった鹿間謙伍君が、TOKと武士道について語ります。

私は対話という無色のペンで、優一さんの原稿をよりわかりやすくなるように努めています。

赤鬼 vs 無色の校閲ボーイ

時には、記事の内容が大幅に変更されることもありますし、ボツになることもあります。

「個人的な知識」と「共有された知識」という部分が分かり辛いです。
こういう書き方はどうでしょう?「共有された知識」がAKB48の歌は、旅立ちの日に比べて少ない。
AKB48の歌に共有性がない。って言うのは無理があるよ。むしろメディアを介して、広い世代に知られているという点で共有性が高い。
そうですか?じゃあ、これはどうですか?
例えば…僕が好きなAという歌にはシングルバージョンとアルバムバージョンがあって、それを僕は聞いて区別することができます。それは僕が好きで知っているからで、一般化された情報ではない。
うーん。わかった。AKB48の歌はうまくハマらなかったけど、旅立ちの日には中学校で習ってたから、出身地が違うけど、練習なしにハモれたとか、送別会で会場全体が一体感に包まれたっていう文章がミスリードになりえるんだ。
この部分わかりにくいですね。AKB48の歌が共有されてない。と言うのには無理があるとわかります。でも、共有の深さが旅立ちの日にとは違うと思うんです。
旅立ちの日にが、より「共有された知識」だって受け取られるような書き方をオレがしてるんだね。航くんがそう解釈するなら、読んだ人に間違った情報を与えてしまうかもしれない。
じゃあ、知識のハードルを上げるとか。
学校教育で時間をかけて習ったから、旅立ちの日にを4パートで合唱できるほど知っている。AKB48の曲は知っているけど、振りまでは知らない。
学校で習い、何度も歌ったから、私たちは旅立ちの日を知っている。
テレビやラジオといったメディアを通してAKB48の歌を知っている。
知る過程や方法の違いこそあれ、他の人も知っていることを同様に自分も知っている。
僕はラオスの人たちが、旅立ちの日にを聞いて感動したというエピソードが、日本の音楽の授業で共有された知識を象徴するような話だと思うんです。
感動っていう感情って人それぞれ違う可能性があるよね。
言葉では一体感が生まれたとか言えるけど。均一に同一ってことはあり得ないから、感動っていう感情はむしろ個人的な知識なんじゃないかな。
説明するのが難しいな。
共有っていうのは、深さのことを指しているんじゃないでしょうか?
確かに、一体感を得られるようなイベントを通して感じる感動という感情そのものは、その瞬間共有されてるよね。でもさ、よくよく分析してみると、感動っていう感情は非常に個人的なもので同一ではない。一概に深さっていっても、人それぞれ違うでしょ。
共有された知識っていうのは事実だったり、原理原則っていう説明がしっくりくるんじゃないかな。
確かに、僕の説だと客観性にかけますね。感動に軸足を置いてるからなのかな。
いや、オレの日本の教育だって引けをとらない的な記述がミスリードの始まり。で、議論の話で日本の学生を持ちあげて、そのあとに旅立ちの日にのハモリの話してるから。
そしたら、この原稿一度ボツにしましょう。
だね。ハモリの話はむしろ「知るための方法」って観点で書いたほうがいい例かもしれないね。まだまだだな、オレ。


前回のエントリーがリリースされる前に、優一さんが書いた原稿に対する私たちの会話の一部です。
省略している部分もあるので掴みづらいかもしれませんが、原稿ひとつに対してこのようなやり取りをしています。
ぜひ前回の優一さんのエントリーと合わせて読んでみてください。校閲の結果、内容がどのように変わったのかがわかると思います。

TOKの「知るための方法」について熊谷優一が触れています。

2日間ほど、このようなやりとりすることもあるので、原稿の完成は前日の夜だったりすることもあります。
まだ記事数が多くないということもありますが、ボツ記事とブログに公開している記事数はいい勝負かもしれません。

最後に

教育者目線ではなく、一般の人が読んでもわかりやすいように努めている優一さんでも、このように全て書き直すということがあります。改めて、専門性の高い情報を伝えることの難しさを学ぶ毎日です。

ちなみに、私の記事は優一さんが校閲しています。
友人ですが、やっぱり先生です。何度も見返して、完璧だという確信を持って確認をしてもらうのですが、先生から中々一発OKはもらえません。(笑)

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