みなさん、こんにちは。熊谷優一です。前回はベトナム線戦争当時の米越の指揮者たちが戦後20年以上たってあの戦争を早期に終結させる機会はなかったのかについて対話したことを取り上げました。
2年ほど前になるでしょうか。新潟県柏崎市で行われた「共に考える“教育の未来”」という柏崎市民による教育イベントに通訳およびワークショップを依頼されたんですね。その時に、「公益財団法人ブルボン吉田記念財団」の理事として、ドナルド・キーンセンター柏崎を運営されている吉田眞理さんが運転する車の中で、平和についてお話ししたのを思い出しました。
今回は、2年前に眞理さんとの対話を再び取り上げ、もう一度平和について考えてみたいと思います。そのことが現在の私の生徒たちとの議論に繋がっていきました。
平和の正体とは何か
「平和の正体は”穏やかな精神環境”である」
吉田眞理さんはそのようにおっしゃいました。そして、このように続けています。
世界平和があってこそ、自分や子供たちの安心・安全の未来の幸せがあります。世界平和は、皆で力を合わせなければ不可能です。生まれた国、家庭はそれぞれ全く異なります。立場も違えば、文化も、宗教も、経済力もすべて違います。それぞれが自分の身の丈のところで、貢献すればそれでいい。得意の部分で楽しくやればいい。
自分の長所と人の長所を繋げて組織を作っていく。短所は、人と人を繋ぐ接着剤。自分を知り、人を知る。お互いの慎重で謙虚な傾聴が、前向きなコミュニケーションとなり、希望ある未来を築いていけると信じています。
平和は実現されたのか
私はこの対話を受けて、当時こんなことを書きました。
「みんな平和、平和って言うけど、人類はいまだかつて平和を実現したことがあっただろうか」
歴史の教科書では戦争は終わったことになっていても、関連がある人たちにとっては実はまだ続いているのかもしれません。誰かがそのことでいまだに悲しんだり、苦しんだりしている状況があります。
それって本当の意味で戦争が終わったって言えるだろうか。そもそも戦争がなければ平和なんだろうか。平和の反対は戦争なんだろうか。
どんな学習プログラムで学ぶとしても、教育の究極の目的は平和な社会の実現だと思います。しかし、私たちは平和っていったい何だろうという問いに答えることができるでしょうか。
平和の断片
この前、現在の私の生徒と平和について話をしました。以前、前任校の生徒たちとも同じ議論をしました。その時の模様は酒井優輔くんが平和の盲点というレポートをしてくれていますので、よかったらこちらもご覧ください。
さて、令和の生徒たちはというと……。平和を定義するにはあまりに壮大だったため、時間の都合もあり、平和の三要素を言語化するという議論から始めてみました。
この後、それぞれ思い思いに平和について話し合いました。「独り」であれば「他者」と争うことがなくなるから、みんなが独りであるっていう意識を持つことが平和につながるんじゃないか、我欲を捨てること、無条件の愛を持つことといった宗教的なアプローチをしてはどうか、否定するのではなく相互理解に努めることなどなど多様な平和の断片が語られました。
最後に
このディスカッションのハイライトは、ある生徒のこの一言でした。
「平和という状態は人類の永遠の努力目標だと思います」
これには参加した生徒みんながうなりましたね。そして、別の生徒が続けます。
「平和という状態は単独で存在しえない。過去と比較して今は平和だとしか言えないのではないか」
「平和な状態が継続すれば、それはそれで人間はダメになる。そもそも完璧に平和な状態はない。過去との比較の中で、より平和だと判断できたとしても、平和ではない状態も存在する」
人と人は争うことを前提に、その中でどれだけ平和に解決していくのかをテーマに先生をしていると以前書きました。そして今、思います。過度の劣等感、孤独感、寂しさ、といったネガティブな感情が争いや人を傷つける行為につながると。
吉田眞理さんが言う「穏やかな精神環境」というのは平和の出発点なのではないでしょうか。そのためにはすべての子どもたちが生まれてきたことを祝福されているという確信が必要です。だから大人の役割、先生の役割って決定的に大事だなと思うんです。それぞれに抱えるネガティブな感情をマネジメントできるスキルを養うのはその後のことではないでしょうか。