街角TOK:乱世に生まれ、乱世に育つ

みなさん、こんにちは。熊谷優一です。今月はイベントが目白押し。個人的にはイタリアの小説家、トンマーゾ・ピンチョのトークイベントを楽しみにしています。

9月8日に発売されて、たちまち売り切れになった『ぼくがエイリアンだったころ』をラッキーなことに手に入れることができて、久々にニルバーナを聞きながら読みました。私の中にたぎったもの正体が何だったのかまだつかめていない今日この頃です。

さて、今月は「ToKtober Fest」と称して、これまで当ブログ(チノメザメ)で取り上げてきた「知の理論(国際バカロレア・ディプロマプログラムの世界必修科目)」の視点をもう一度振り返ります。「ToKtober Fest」はドイツ語で10月を表す「Oktober」に由来し、語頭に「T」をつけて「TOK(Theory of Knowledge:知の理論)」のお祭りっぽくしようと思って始めました。

今年は四月にコンサートに行って以来、ちゃんと聞くようになった中島みゆきをテーマしてみたいと思います。中島みゆきの時間の捉え方が考古学者のそれに似ているように聞こえるんです。

希望

日本人がメソポタミアやトルコの遺跡を掘流のは何故か。松本健先生と20数年ぶりに熊谷がお目にかかった大村幸弘先生の対談は胸熱くなるばかりです。

どんなに困難な状況になっても、どこかに足がかりを求めて継続を試みる。世代を超えて、時代を超えれ、私たちの先輩方もそうやってバトンを繋いできました。コロナ禍や戦争などさまざまな社会情勢で、色んなことが中止されたり、断念されたりする中でも、なんとか灯火を消さず、可能性を探ろうとする心。

私はそれを「希望」というのではないだろうかと前回書きました。トルコの遺跡発掘調査をしている大村幸弘先生が、何世代もかかるであろう調査を完結させるためには、粘り強さを教えなければならないという言葉を聞いてのことでした。

そのあと聞いたのが中島みゆきの『乱世』という歌です。「世界が違って見える日」というアルバムに入っていた歌で、以下の動画の1:59から一部分聞くことができます。

乱世

僕は乱世に生まれ 乱世に暮らす ずっと前からそうだった

中島みゆきはこの歌のサビでその歌っています。中島みゆきの時間を捉える視点が大村先生や松本先生のような考古学者が持つそれと似ているように聞こえました。

小説ではなく、非文学テキストの本を家族で夏休みに読んでみませんか?『時間はどこから来て、なぜ流れるのか? 最新物理学が解く時空・宇宙・意識の「謎」』という本を紹介しています。

以前、こちらのエントリー(↑)でもちらっと書きましたが、私は時間を自分の一生分くらいの長さでしか捉えようとしない傾向を自分に感じていました。人生はたかだか100年。いやもっと短いでしょうね。そして、その時々で起こる一々のことをさも大仰に捉えがちです。平穏無事な状態こそデフォルトと思い込んでいるところがあって、問題が起こったり、うまくいかないことがあったりすると、途端に嘆くのです。そんな私に追い打ちをかけるように中島みゆきは歌うのです。

僕は乱世に生まれ 乱世に育つ 驚くほどのことじゃない

そういえば、中島みゆきは「まわる まわるよ 時代はまわる」と歌っていたじゃないですか。いい時もそうでない時もあって、それはことの大小はあれ繰り返される、と。そして、乱世に生きる時も、「そんな時代もあったねときっと笑える日が来るから、くよくよしないで今日の風に吹かれましょう」なんて励ましてくれていましたもん。私が捉える時間の長さより遥かに悠久に時間は存在しています。そんな悠久の時間から自分の一生を見るという視点って私にはうっすらともありませんでした。

その先へ

人類はのような未知の感染症をどれほど経験したでしょう。人知を超える規模の自然災害を私たちの先祖はどれだけ経験したでしょう。私たちの意思とは関係なく起こり続ける戦争にどれほど涙を流してきたでしょう。

その度に人は嘆き、悲しみ、立ち上がってきました。人類の歴史を俯瞰すれば、いやいや平穏無事な時の方が短いですよ、乱世こそデフォルトですよって気がしてきました。とすると、きっと私たちの子孫もようなに乱世を経験するに違いありません。

何世代にわたっても、この発掘をやり切るために粘り強さを育てる。そういった大村先生の言葉は、単に考古学者として研究する人材を育成するためにとどまらず、乱世を生き続ける者に備わっていなければならない本質的な力を育てるのだと聞こえます。

たった今、私たちの目の前にいる子どもたちを超えて、その子どもたちが将来大人になり、その子どもたちを十分に育てられるように教えるという視点。私たちが対面する世代のその次の世代に向けてバトンを繋いでいるという感覚といったら、もう少しわかりやすいでしょうか。その先へ繋ぐ教育観が芽生えたのはこうした先人たちの時間の捉え方のおかげかもしれません。

最後に

別の回で取り上げようと思ったのですが、我慢できないのでここで紹介します。『昔から雨が降ってくる』という歌です。昔から雨が降ってくるんですよ、皆さん。水の循環をそんな風に歌にできるって素敵だなぁって改めて思うのです。

それは易経を読んだ時に感動にも似ています。かつての乱世に生きる祖先の煩悩の結果が今の社会を下支えしているように、今の乱世を生きる私たちの煩悩の果てに、未来を生きる子孫の煩悩を紐解く手がかりになることを希って、休み休み、煩って、悩んでいきましょう。

何でしょう、書いているうちに何だかとてもありがたい気持ちになってきましたが、こんな終わり方でいいんでしょうか?