こんにちは、大阪市立水都国際高校二年の内山桃です。ちなみにもうすぐ、大阪市立が大阪府立に変わるそうで、どんな変化がおきるのか少し不安な今日この頃です。
さて、今回は二回目の執筆で、お題は「これまでにバズったDP科目の授業」です。少し一学期を振り返ると、DPの授業を通して、普段よりも感情が多く出たと思います。問題の読みが浅くてそもそもスタートラインに立ててなくて絶望したり、絶望したり…。
これでは、精神状態が不安定で感情の制御がきかなかったとも読み取れますが、今のところは違うと主張しておきます。でも、今回は一学期の中でも良い方の感情が出たり、最も自分の中での学びが深まった、好きになったと思うものを選びました。前置きが長くなりましたが、私の中で最もバズった科目は言語と文学、与謝野晶子による『みだれ髪』を題材にした授業で
す。
正直、気が重かったです
まず、『みだれ髪』とは与謝野晶子のデビュー作であり、彼女自身の恋愛事情や愛する人への思いを短歌として収めた、個人的には所々になまめかしさを感じる歌集です。女性の気持ちが今よりずっと無視されている時代の人々にとっては、かなり衝撃的な内容であったと思います。
私たちが授業で行ったことは、最初に、晶子により執筆された、あるいは晶子について書かれた文献を読み、彼女について知りました。次に、『みだれ髪』から気に入った3つの歌を選び、解釈・鑑賞を6枚のレポートにまとめて、発表しました。
『みだれ髪』を初めて手に取るときは、「君死にたもうことなかれ」という優しい弟思いな姉の顔を見せるくせに、鉄幹と結婚したという経緯(今でいう略奪婚)を思い出すと、なんだか裏切られた気がしてあまりよく思ってなくて、正直のところ、取る手が非常に重かったです。
みだれ髪から見る女性の地位
けれど、女性の社会的地位が今とは比べ物にならないほど低かった時代に、晶子がそれを変えようとしていた第一人者であったことには、素直に感動しました。
でもやっぱり、読み進めるうちに着物を脱ぐという表現が多かったり、日が沈んだ時間帯を歌うことが多かったりと、読み手を気恥しくさせるというか、唸らせる内容が多いように思いました。
このような理由から、この本に対する私の姿勢はあまり前向きではなかったのですが、この本を通して「テクスト論」という考え方に出会ったとき、私の『みだれ髪』にたいする姿勢はガラッと変わりました。テクスト論とは、文章を作者の意図や経緯を考えながら読むのではなく、あくまでも文章それ自体について考えようよ、といった考え方です。
作者と作品と
作者ではなく、文章のみを読み解くという単純な考え方なのに、なぜ今まで思いつかなかったのか不思議でなりませんが、今思えば国語を習い始めた小学一年生の時から作者論という考え方を通して、文章を読んでいた気がします。
極めつけは、Pre IBで初めて「言語と文学」と出会ったとき、『河童』が題材だったのですが、やっぱりその時も、私は芥川龍之介の生涯について知るところから、『河童』を考えることを始めたんですね。そもそも幼稚園の時は作者を知ろうなんて思いもしなかったのに、義務教育を終えてみると、いつの間にか作者論の考え方が染みついていたのはなぜか。
実は、私は洗脳されていたんですね、気づかぬうちに。そのことに気づいたとき頭の中で何かがパチンッとはじけたような、見る世界が広くなったような、そんな感覚がしました。
今からIBを始める君へ
私が16歳にもなってようやくこのようなことに気づけたのは、学校の先生方にも言いたいことはありますが、そもそも私が「当たり前」を疑うことをしなかったからなんですね。今まで、校則に対しては一々疑いをかけたというか、文句を言ってきたのに、なんで国語の授業方針を疑わなかったのだろうと後悔しかありません。今回、私が最も主張したいことは、「当たり前」を疑えということです。それでも、むやみやたらに疑って主張すると、「根性腐れ」などの暴言を浴びせられる場合もしばしばあるので、注意していただきたいものです。
追記
もし『みだれ髪』をもう読んだ、この手の本に興味はあるが物足りないという方は、ネット上に『ゾロゾロ語訳』という怪しげなサイト(実際に怪しいです)もあるので、よりしければ参考まで。このサイトでは、新しい視点から『みだれ髪』を考えることができます。